当塾で月一を目安に作っている塾内報6月分から一部抜粋です。
「国語は誰でも教えられる」と思っている人がたくさんいます。
さらに、「国語はけっきょく運だから」と捨てている人がいます。そ
んな人が多いせいでしょうが、国語が無い塾もあります。
他の科目の講師が片手間で教えている塾もあります。
テクニック的なことだけ教えて、ちょこっと点数が伸びて安心している人もいます。
そんなことはあってはならない!
なんなら、国語だけ教える塾である方がはるかに健全だと私は思います。
だって、国語が一番の学力の基盤なのだから。
「読む」という行為を通じて考える経験をする。
それが国語です。
でも、一人では文章をかみ砕くことが極めて難しい。
だから、私のような変態の出番で、
文章の内容が分かる人間がかみ砕いて文章の背景的なことや、言葉の知識を教えつつ、考えるという作業の手助けをするんです。
国語は誰でも教えられるというのは完全なる過ちです。
何を読ませ、何を考えさせ、何をみえるようにしていくか、それはすなわち、その子をどのように育てるかという事とほぼ同義であり、圧倒的な専門性を持つ事柄です。
国語を軽視している塾にはご注意ください。
何もわかっていない残念な塾です。
国語を学ぶというのは、言葉を学び、文章の読み方、点数の取り方、答えの書き方を学ぶという事だけにとどまりません。
小さな世界を広げ、この世界のマップを作り、「見える」ようにしていくことです。
世界の解像度をあげるということであり、これをしていかない限り、国語の伸びは限界を迎えます。
もしかしたら、中学校の間はたいして国語をやらんでも耐えきれるかもしれません。
事実、中学三年生くらいになると、放っておいても国語の点数は勝手に上がるんです。
なぜなら、精神年齢の成長と共に、いろんなことを勝手に考えられるようになるから。
そして、入試問題をやって、いかに自分が細かく読むという事をしていなかったかを感覚的に知り、「読む」ようにはなるからです。
けれど、それで何とかなるのはせいぜい中学生のまで。
高校受験の公立共通問題レベルが限界です。
それ以上や大学入試では太刀打ちできず、中途半端な点数にしかならない。
そして、現代文が微妙な点数にしかならなくて、大学入試で困るんです。