少し前に、当塾の塾内報に書いた文章をこの自粛期間用にアレンジして加筆しました。
長いです。
みなさんは、後から考えると明らかに非合理的なのに、何故か選んでしまったということはないでしょうか。
イメージがしづらいですね。
とても簡単なレベルに落とし込んでみます。
これからのことを考えるならば、明らかに勉強をしておくべきであるにもかかわらず、何故かやらなかった。
という経験はないでしょうか。
わかってて聞いています。
答えは「ある」に決まっています。
これは、「意志が弱い」という言葉でまとめられてしまいますが、そんな言葉でまとめてしまっては、一向に改善の余地はない。
だから、この現象(人間の非合理性)をもう少し細かく考えてみます。
近年の脳科学の進歩は目覚ましいものです。
もちろん、そのすべてを解明できたわけではありませんし、まだまだ不明瞭な部分の方が多いのが実情です。
それでも、私たちの意識に関しての驚くべき事実が分かってきました。
世界的なベストセラー『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏はいいます。
我々には「経験する自己」と「物語る自己」という二つの自己がおり、物事の重要な決定を下すのは「物語る自己」の方である。
そして、自分だと思っている自己意識は常に、この二つの自己の主導権の奪い合いの結果、勝ったどちらか一方であると。
「経験する自己」とは、その時その瞬間の自分の意識であり、「物語る自己」とは、その経験に意味と解釈を与え、自らの大きなレベルのことの方向性を考え決定する意識のことを指します。
そして、ハラリ氏はこう続けます。
経験する自己は何も覚えておらず、何も物語らない。
大切な決定を下すのはいつだって物語る自己のほうであり、物語る自己は手っ取り早い方法を採用し、経験を総計はせず、平均で判断する。
物語る自己は経験の時間を考慮しない。
しかし、経験する自己は強力で、物語る自己が作り上げた計画を台無しにすることがよくある。
難しいですね。
読むのを辞めてしまった人がいるかもしれません。
先ほどの勉強の例で話をします。
自分が「こうありたい」「この高校へ行きたい」と決めるのは、物語る自己のほうです。
しかし、経験する自己はその瞬間の欲望を優先し、スマホをいじります。
こうして、せっかくの計画を台無しにします。
さらに、「なんで勉強しないの?」と我々や親に言われ、「部活が忙しくてできなかった」とかもっともらしい理由を作ります。
しかし、この理由を作るのは物語る自己のほうです。
何のことはない、ただ、欲望に忠実に従っただけであり、その他の理由なんて、ありません。
脳はけっこう適当なんです。
特に、物語る自己の方は、何か解釈が必要な場合は、経験する自己がもっているデータを適当に検索して、「それっぽい理屈」を作り上げる働きをします。
この場合も、欲望に従っただけだけど、「物語る自己」が理由をでっち上げるんです。
さらにハラリ氏はこう続けます。
私たちは自分の悲惨な悪行に意味を与えられるのは、その空想だけだ。
物語る自己が描いた空想のために犠牲を払えば払うほど、その物語に執拗にしがみつく。
その犠牲と自分が引き起こした苦しみに、是が非でも意味を与えたいから。
私たちの物語る自己は、過去の苦しみにはまったく意味が無かったと認めなくてすむように、将来も苦しみ続ける方をはるかに好む。
人間は、自己の誤りを認めるのが苦手なようです。
それを認めには、物語る自己は何かをこじつけて筋書きを変え、誤りそのものにも意味を持たせざるを得ない。
とにかく、意味が無いと我々は嫌なようです。
また先ほどの勉強の例に戻します。
「部活が習い事が忙しくて勉強が疎かになる」という理由を一度脳がでっちあげてしまうと、それに今度は逆に私たちの意識がそれにすがります。
「成績下がっちゃった…。でも、それは部活が忙しくて満足に時間が取れなかったから。このままじゃ臨む高校に行けないかもな…でも、だって、ここまで部活頑張ったし、それは無意味じゃなかった。だから、最後まで部活をやりきろう。
そして、それが終わってから頑張ろう」と、問題を先送りにし、部活引退後に、さらに苦しむことを選びます。
途中で部活を辞めてしまったら、それまで部活動に勤しんでいたことが誤りだったと自ら受け入れなくてはならないから、それが苦痛なのです。
そして、本当は分かっているのに、認めないために、「やりきったことに意味がある」という解釈を求めるのです。
ここまで書くと、「私が部活や習い事に意味が無いからやめろと言っている」という解釈をされそうですが、そんなことを言うつもりは毛頭ありません。
私は部活なり習い事はおおいにやるべきだと思っています。
そこで得られる経験は重要なものであるから。
言いたいことは
「オイ、オマエラ、勉強しない理由を、
自らが自らの欲求に忠実であることに目をつぶって、
忙しさのせいにしてんじゃねーよ」
ってことです。
キミたちが勉強をしないのは、忙しいからじゃない。
ただ単に、やりたくないからだ。
勉強よりも興味をひく何かが目の前にあるからだ。
その事実から目を背けるべきじゃない。
勉強をしない理由は本当に、忙しくて時間が取れないからなのか。
そんなことは断じてない。
例年の生徒を見ていると思うのです。
結局忙しかろうが、やるヤツはやるじゃんって。
やらないヤツほど、何かしらの理由をこねくり回してるじゃんって。
もっとシンプルに言いましょうよ。
「やりたくないからやらないんだよ」
って。
そう言えば私は認めますよ。
他の人はなんていうか知りませんが。
〔加筆部分〕
さて、このコロナ自粛という期間。
当塾の子はなんとか各自頑張ってるようです。
これは、学校が無くて遊びほうけている方に向けて言います。
で、やらない理由はなんですか?
学校が無いから勉強できない?
塾が休みになっちゃったから?
関係ない。
キミがやらないのはやりたくないからだ。
断言してもいい。
キミは、学校があろうが塾があろうが、絶対にやっていない。
とりあえず、余計な理屈をこねくり回すことはやめて
その事実を受け入れるべきです。
もとから勉強が好きな奇人は別にして、大体の人にとって逆説的なようですが
勉強に向き合う姿勢は実はここからやっと始まると私は考えています。
わざわざ興味もない、何の役に立つかも知らん数学なんぞやってたって楽しくない。
四字熟語? どーてもいいわ。
古典? 知るか。
歴史?信長が何をしたかなんて知らなくても生きていける。
にもかかわらず、なんで覚えねばならんのだと。
こういう理屈です。
「大人になってから困る」などという話も詭弁です。
勉強なんざできなくてもこの世の中は十分に刺激的に生きていけます。
以前通信で「勉強する意義」という話を書きましたが、それはこの社会における勉強の有用性や意義を書いたにすぎません。
私が勉強するべきだという理由はたった一つです。
勉強するやつのほうが、私が話をしていておもろいと感じるから。
そういう仲間が私は欲しいから。ただこれだけです。
まあ、そんな私の好みの問題はどうでもいいんです。
勉強は始めは大体の人にとって嫌なものです。
それを受け入れて、「でも、俺はやるよ」という反転ができないと、スタートラインに立てません。
この「嫌だ。でもやる。」という構図をもって取り組んでみる。
それこそが、弱い自己に立ち向かうということであり、自分を律していくということの第一歩のことのように思えます。
先ほどの部活の例を反転させてみましょう。
少し勉強に努めていくと、今度はこんな虚構を脳が作ってくれるかもしれません。
「勉強ここまで頑張ったやん? もうちょっとやり込めば結果が出てくるかもしれないやん?
だから、これまでの頑張りが無駄だったって言わないで済むように、やりきってみませんか?」とこんな具合に。
そんな理想的な変化はないかもしれませんが、そうであればいいなと思って取り組んでみると、いいかもしれませんね。
そして、今度はその勉強に対する虚構にすがってやりましょう。
我々は、弱いですからね(笑)