前回の続きです
自分の一生がデータに基づいたものであると認めてしまったら、何の自我も確立されていないような時期に音楽を聴いていたかどうかで自分の人生の選択肢が一つ消えてしまうとしたら、それはもはや自分の生ではなく、親が子供をどのような職に就かせたいかというだけのエゴの塊になり果てます。
データ教に支配された社会とはこんな社会(しかも、その社会に住む人にはそのような自覚は一切ない)になったとしても不思議ではありません。
AIについての通信を読んでいただいた方は分かると思いますが、(欲しい方はご連絡ください。10万字もあるのでここには掲載できません)情報技術進歩はめざましいものです。
やろうと思えば、この程度のシステムはいずれ作れます。
嘘だと思うかもしれませんが、本当です。
皆さんは、中学校、高校、大学のどこかで、「将来について考える」という時期がやってきます。
学校でやることもあるでしょう。
その際に、「向いてる職業チェック」的なものをやることがあります。
そして、みなさんは、その評価によって得られたものに近しいジャンルの職業を目指していきます。
さて、さきほどの『psycho‐pass』の世界と何が違うでしょうか?
ならば、そんなものに頼らないで自分で自分の適性を見つけ出せばいい。
そんな反論があるでしょう。
そうすればいいです。
その結果、自分の人生で多大なる遠回りをして人生の多くの時間を「非効率的」に歩んでもいいと思うのならば。
あなたは使わないかもしれない。
けれど、残念ながら社会は「効率」という病におかされています。
つまり、その「効率」から外れる動きをする人は、社会的に好まれません。
使い勝手が悪い、あるいは合理的ではないと見なされてしまうから。
人生は短い。
たかだか80年程度しかない。
その80年をいかに効率よく金を稼いで楽しく生きるかというゲームだとすれば、みんなデータ神に従っていた方がよさそうです。
しかもデータに従うと本当に金を多くゲットできる! なんて楽なゲームだ!
しかしこれは余裕のない社会です。
次から次へ、データとそれの分析結果が通達され、それに追われる日々になる。
本来、個々人の適正なんてものは、人間関係の中で出来上がっていきます。
だから、社会生活を営む中で個々人の性格や性質は徐々に変化していきます。
そして、今までの社会はその中で何をするでもなくただ自分と自分を取り巻く人たちとの関係について悶々とする時間がありました。
けれど、近年ではその時間も無くなりつつあります。
社会は高速化しているため、日々色々な情報が自分の元へ飛んでくるためです。(別の理由も携帯電話について通信で書いた時に触れています。そちらが欲しい方もご連絡ください。)
みなさんも、特にお仕事をなさっている方は、昔(携帯電話がなかった頃)より今の方が忙しく感じているのではないでしょうか。
筑波大学の教授である土井隆義氏は『〈非行少年〉の消滅‐個性神話と少年犯罪』という著書で近年の若者(といっても15年近く前の書籍ですが)について、こう言います。
「彼らの感受する個性とは、社会的な人間関係のなかで切磋琢磨しながら構築されていくものではなく、自分の内面へと奥深く分け入っていくことで発見されるものである」と。
個性が土井氏のいうものとして認識されてしまっているのなら、データ教はより一層加速します。
我らが神はこう言います。
「今までのキミの行動パターンを分析した結果、キミの個性はこれだって結論になったよ。だから、キミはこういう事をするといいよ。」
我々はそれを受け入れます。
だって個性がわかってるんだから!
これはあくまでも一つの可能性でしかないのですが、現実に起こり得るものであり、既にそうなりかけている社会です。
ここまで大胆に分かりやすいデータ支配ではないにせよ、効率によっておかされたデータ神をあがめる社会はすでに到来しています。
これで本当にいいのかな?と私は思うのです。
もっと緩やかに穏やかに自分の人生を考える時間があっていいじゃないかと。
なんなら一年間ぐらい、そのために時間を使ったって、なんのマイナスにもならない。
むしろプラスなんじゃないかと。
だから、浪人も留年もいいじゃんと。多少のニート期間があってもいいじゃんと。
それくらいを笑って乗り越えられるくらいの余裕を社会全体で共有していければいいのにと思っています。
そして、その空白期間でちゃんとみんな哲学とか思想とかを学ぶべきじゃないかなと心底思っている次第です。
そのほうが、豊かな社会になるような気がするから。
さきほど、人生は80年程度しかなく短いと書きましたが、そうでもありません。
80年という時間は人が何かを、自分の人生を考えるには十分に長くあります。
短いと感じてしまうのは、それだけ余裕のない生き方になってしまっているという事です。
年を取るごとに一年が短く感じるようになると言われています。
体感時間は小学校時代の夏休みは、老いてから迎える夏の数十倍にも及ぶこともあるでしょう。それは、老いるほどに知識が増えて感動が減るためだと言われています。
それもあるでしょう。
しかし、それだけではなく、我々が生きていく中で、流れる情報の渦に巻き込まれているからです。
これからの社会において、我々はその渦から抜け出すことも、考えていかなくてはならないのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。