当塾の塾報内記事、通信で掲載したものをブログに移植です。
またまたとても長いです。といっても、今回は4000字くらいで、②で終わります。
近年ずっと感じていることなのですが、世の中ちょっと「効率」に支配されすぎてやいませんかね?
たとえば、この受験業界でいえば、
高校受験がある。
ならば、受かるためには何をすればいいか。
勉強である。
勉強のためには時間が必要である。
ゆえに、部活や他のものなんて切り捨てて、中学時代は勉強せよ。
大学受験も同様に、高校三年間は勉強に邁進せよ。
とか、
受験で有利な子になって欲しい。
ならば小さい頃からこういう訓練をさせると良い。
とか、こういう思想。
そんなことはない!
とみんな思っていながら、心のどこかではそういう風に考えてしまっているのではないでしょうか。
私だって、受験産業に身を置いている以上、そういうことは考えます。
しかし、私は、こういうことは好きではありません。
それって、豊かな社会といえるのかなぁ…と思うのです。
上記の事は、この効率という面での話であれば、まごうこと無き真実です。
しかし、人生ってもっと、いろいろあるもんだろうと。
受験なんて、正直言ってどうでもいいだろうと。
もっと考えるべきことはたくさんあるし、それを考えないから、大したことない学力だけある人間が量産されているんだろうと、そう思わずにはいられません。
効率が支配する世の中において、重要視されるものは何か。
それは、「データ」です。
私たちの生活は、今やこのデータを崇拝し、そこから導き出される確率に支配されています。
自覚はないと思いますが、よくよく観察すれば、この社会のあらゆるものが、データ分析の結果であることは理解できます。
私たちにとって、データは今後の成り行きを予測させてくれるツールであり、私たちの生活を支配する神です。
キミが行きたい大学はどこか。
その為にはこの学校へ行くべきである。
中学受験をすべきである、高校受験をすべきである。
すべて、データに基づいた分析です。
データに基づいた動きをするのは確かに効率的でよいとは思います。
しかし、このデータ崇拝は、人生において「いつまでに〇〇すべきである」というある種の最後通牒的なことを我々につきつけてきます。
例えば、ピアニストになりたいなら、幼少の頃から、(もっといえば母胎内にいる時から)音楽を聞かせ、習わせ、絶対音感を身につけさせるべきだ。
というような感じで。
そこで我々はこう言います。
「あれ? じゃあ、幼少からやってなかったから、僕には無理なの?」
すると、我らが神であるデータはこう答えます。
「いえ、決してそんなわけではありません。あくまでも、データに基づいた統計によると、そのほうがいいと言っているだけです。ちなみに、今のあなたが目指した場合、それで糧を得ていける確率は0.1%です。そして、そのようになるためには、毎日8時間はピアノと向き合い続けるべきです」
こう言われて私たちはどう思うでしょう。
たぶん、ほとんどの方が「なんだ、特殊な才能がない限りは、ずっと昔からやってないと無理なんじゃん。じゃあ、やめよう」となるのではないでしょうか。
あるいは、自分の生まれを恨むかもしれませんね。
「なんで、俺にピアノをやらせなかったんだ!」と
音楽に限りませんね。
スポーツなんかの方が、もっとこの傾向は顕著です。
フィギュアスケートとか。
五、六年前に大きな反響のあったアニメ『psycho‐pass』では、このデータ教を垣間見ることができます。
そのアニメでは、社会人になるときにテストを行いそのテストの点数に応じて、「キミは〇〇という職業に適性があるから、それになりなさい」という評価が提示され、その社会に住む人々は、それに従って職業を決めています。
もっと突き詰めてみましましょう。
このデータ教が行きつくところはこの『psycho‐pass』で描かれている世界のさらに先です。
幼少期にどのようなものに触れたかによって、物事の向き不向きが決まる。
そして、中学校に上がるころには大体その人の適正は決まってくる。
あとはデータがあなたに向いている事柄、必要な事柄、何を、どのくらい、をすべて数値で示してくれる。
我々は、その神が示してくれた通りに人生を歩む。
データが示してくれた目的のために。
もし、神の提示したものが気に食わなければ、別の道を進んでもいいが、その場合に必要な事柄の量、それをこなした場合に望む結果が得られる確率(しかもかなり低い)は提示されている。
さて、一つ質問。
そのような人生を、自分の人生だと言えるでしょうか?
(続きへ)