普段着はズボン派?スカート派?

 

私の場合―――

 

曲がりなりにも流石に男性であります

ので

スカート派はないですねェ……

 

コットンというのであれば…

 

ジーンズ

下着などはコットンが多いです。

 

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 2024年5月10日(金)

こんにちは雪月 剛(ゆづきごう)です。 

 

今日も今朝アメーバさんより寄せられている 

 「 リブログ 」………                                

 

〈 原文に段落行間隔らの改定を施しています… 〉

どうか

よろしくお願いいたします~~~

 

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画像 #ゾッとする〇〇メッチャ笑ってますよ。 の記事より

下記のリブログに繋がるお話――― 

 

明治維新以来…150年もの歳月は日本民族に重過ぎる…

 

大先達の

説(と)かれていること〈 警鐘警告!! 〉を聞くまでもない……

 

いったん出来上がってしまった体制〈 怪物 〉

立ち向かって戦える

…術は

    日本民族どころか…人間のどこにもない……

 

どうしようもない日本―――

 

  どうにもならない日本――――

 

  なるようにしかならない日本民族――――

 

 果たして未来は………

画像 #時の流れの早さを感じた事 の記事より

  今日は

2022年5月10日(火)

 

今朝も

アメーバさんよりリブログが寄せられています。

  ご厚情をありがたく受け――

 

いつも通りに早速の活用をここにさせていただく所存です。

  

2021年度

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去年、母の日に何かあげた?

 

私、

雪月自身の母は もう空の彼方に逝ってます

ので、

 お祈りだけでも許されるでしょう。

 

である所以にて、

 現在(いま)、 若い母親の方々、

 

またこれから母となろう、

 大切な身を持つ皆様方に 最も捧げたい――

 

それは、 いまのいま 

 こうして描かせていただいている、

 

「 雪月 剛のブログ 」 をです―――


 今日は

2021年5月10日(月)―――母の日

 

昨年

2020年5月10日付 投稿記事です―――――

画像 Google photoが教えてくれた記憶の記録 #少し前の事と思ったら〇年前だった の記事より

テーマ:
 

雪月 剛のブログ88 日本って不思議な国? 

          日本人って不可思議な人種!? 

  パート19  


 小室直樹博士(故人遺作)著作 

『 日本国憲法の問題点 』 

集英社、2002年。

より

    引き続きの引用――――

 

 前回、

国民不在の「 教育基本法 」(140P)

     つづき―――――


   では―――――


明治政府に立ちふさがった「 巨大な壁 」(143P)・ 

 

 日本には 「 国民 」 がいなかった!(145P)      


戦前の教育は、まるでアメリカの教育と瓜(うり)二つだった。

 

こう言う

と、

たいていの日本人は眉(まゆ)をひそめる。

 
戦前の日本といえば、狂信的で、時代錯誤的で、封建的で------

と…

 

まあ、

こんな形容詞を連想する人が多い。

 

 その

戦前で行われてきた教育のどこがアメリカ的なのか

思ってしまうのは無理もない。

 

 だが、

 

明治以来の日本で行れてきた教育の主眼

は、 

 

まさに

あめりかのそれと同じなのである。

 

 明治の新政府にとって、最大の課題は不平等条約

改正だった。


 幕末に相次いで来航した欧米諸国は、日本に対して不平等条約を強制した。

 

日本には

 

関税を自主的に決める権限もなければ、

 日本の法を犯した外国人

処罰する権限もなかった。

幸いにして

日本は中国のように植民地にはならなかったもの

の、

 主権国家として認めてはもらえなかった。

 

日本の扱いは「 半主権国家 」であった。


 この

不平等条約を何とか撤廃し、日本を欧米と対等な主権国家にしたい。

 

  それが

明治の指導者たちの宿願(しゅくがん)であった。


そこで

明治政府は革命の余燼(よじん)が残る明治四年(1871年)、

 いわゆる

岩倉使節団を派遣して、欧米との条約改定に当たらせた。

 

ところが、

これに対して欧米側の反応は冷淡だった。

 

 欧米の言い分は、要するにこういうものであった。


「 日本も欧米並みの近代国家になりなさい。 

  そうしたら主権国家として認め…

対等の条約を結んでやらないこともない 


 この返事を聞いて、明治政府の首脳

「 何としてでも日本を近代化しよう 

  と

考えたのは言うまでもない。


ところが、 

そこに大きな壁が立ちふさがっていた。

 

 というのも、 

日本を近代国家にしようと思って

も、 

 

近代国家に不可欠な

  「 国民 」 

存在していなかったのである。

 

 日本には 

「 国民 」 

          がいなかった!(145P)         

 

すでに述べたように、近代国家とは「 民族 」の存在を前提にする。

 

近代国家とは、民族国家である。

 

ところが、この時代の日本

 

  日本民族 」 は存在しなかった。


これではいくら日本の産業を近代化し、軍備を西洋流にしよう

とも、

 日本は近代国家になれない。

日本国民を作らなければ、どうしようもない。

 

そのことに明治の元勲(げんくん)は気付いた。 

 

そして愕然とした。


 この当時の日本列島には、

言うなれば

二種類の日本人がいた。

 

 一つは下級武士を中心とする、 尊皇(そんのう)思想を抱いた日本人。

 

言うまでもなく、

 彼らが明治維新の立役者であり、 原動力となった。


 もう一方の 「 日本人 」 

は、 

住民の大多数を占める農民であり、 町人であった。


 後者の日本人には、 自分が 「 日本人 」 であるという自覚もなければ、 

 

愛国精神もなかった。

 

 そのことを示す例は枚挙(枚挙)にいとまがない。


幕末の元治(げんじ)元年(1864年)率先、攘夷を実行に移した長州藩に対して、

 

 英米仏蘭の四か国連合艦隊は攻撃を行い、馬関(ばかん」)砲台を占拠した。

 

この悲運に接したとき、 はたして当時の長州の庶民はどうしたのか。


 民族国家の国民だったら、絶対に考えられないような振る舞いをした。


こともあろうに、

外国の水兵たちに手を貸し、自ら進んで馬関の大砲撤去、

 つまり

武装解除を手伝ったのである。


武士が必死になって夷てき(外国人)と戦っている

のに、

 庶民は進んでその敵に協力していたというわけだ。


丸山眞男教授

は、 

このことを評して 「 何たる光景! 」 と慨嘆(がいたん)している

(『日本政治思想史研究』新版。東京大学出版会。334~335ペ―ジ)


 この時代、

 武士と庶民の間には一体感がまったくなかった。

 

これは

何も長州藩に限ったことではない。


 たとえば、

戊辰(ぼしん)戦争の折、徹底的

官軍に抵抗したことで知られる会津藩においても同じであった。

 

 薩摩・長州を中心とした東北征伐軍に対して、会津は武士はもちろん、

その

子弟、妻女に至るまで命を捨て徹底抗戦した。

 

 白虎隊の悲劇はあまりにも有名である。


ところが、

その会津藩士の戦いの間、庶民はいったい何をしていたか。

 

 会津藩の悲劇など、どこ吹く風。

 

自分の生命と財産を守ることだけにしか関心を持たなかった。


 中には、官軍に対して協力した者さえ少なくなかった。

 

この様子を見た板垣退助( のちの自由党総理。

  自由民権運動で有名 ) 

 

 「 一刻も早く国民国家を作らねばならない 」 と思ったという。


以上は幕末の例だが、明治維新になっても同じである。

 

 幕府が倒れ、 新政権が作られようとも、 庶民の生活も意識も変わらなかった。


つまり、

日本はまだ二つに分裂していたままであったというわけだ。 

 

 明治初頭、「 一つの日本 」 は存在しなかった。

 

日本はまだ国民国家ではなかった。


 何としてでも近代国家になる必要に迫られた明治政府にとって

「 国民の創成 」は急務であった。

 

 国民なくしては近代国家にはなり得ない。


民主主義はもちろんのこと、近代資本主義になるのだって覚束(おぼつか)ない。

 

 近代的軍隊もまた、国民の存在を前提にする。


そこで明治政府は死にものぐるいで国民教育を行うことにした。

 

 日本全国、津々浦々に暮らす民に 

「 自分は日本人 」 であるという意識を定着させる。

 

 近代日本の命運は、まさにその一点にかかっていたと言っても過言ではない。


明治政府が行った、超特急の国民教育。

 

 その結果は見事な成果を収めた。

いや、

奇跡的な成功を収めたと言うべきであろう。

 

「 自主憲法制定 」 だけでは何も変わらない


 本書で何度も強調しているよう

に、

憲法とは 「 慣習法 」 である。

 

 たとえ成文化された憲法があろう

と、

それが実際に行われているかどうか…

また、

行われているとしても…

 

 それがどのように行われているかを見なければ、

 

「 憲法が分った 」 

とは

言えないわけである。


 その意味で、

憲法とは日本人が考えているよりもずっと幅広いものであると言える。

 

そして、

その中には教育制度もまた含(ふく)まれる。


 憲法を活かすも殺すも 教育次第。  

 

こう言ってもけっして過言ではない。


 いかに立派なデモクラシ―の憲法を公布しよう

とも、

国民の間にデモクラシ―が定着していなければ、

 

その憲法は機能しない。


明治憲法を作った伊藤博文が悩んだのも、その点であった。

 

 伊藤博文をはじめとする明治の元勲たちの悲願

は、

日本を欧米から認めてもらえる近代国家にすることであった。


 だが、

それには西洋流の憲法や近代法を導入しただけでは不十分である。

 

日本人が近代精神を持たなければ、その法は機能しないであろう。


 そこで伊藤は――― 

 

山崎闇斎(江戸初期の思想家)以来の尊皇思想を基(もと)

 

「 天皇教 」 を完成させた。


 しかるに現代の日本は。

 

戦後の日本で行われている

のは、 

 最もアメリカ式教育から遠い教育である。

 

いや、 

  最も非民主主義的な教育  

と言ってもいいだろう。


 戦後の日本では、デモクラシ―の根本概念である 

「 自由 」 も 「 平等 」 

  まったく違う意味で使われるようになった。

 

これもまた、その結果である。


 現代では、

人を殺すのも 「 自由 」、売春するのも 「 自由 」 である

という理屈

平気でまかり通るようになった。

 

 もちろん、

そんな自由はデモクラシ―とは何の関係もない。


また、

本来のデモクラシ―における平等

とは、

 「 機会の平等 」 だったはずなのに、

 

それが日本では 「 結果の平等 」 

受け取られるようになった。

 

 学校のテストや運動会の成績にランクを付ける

のが

「平等に反する」、 「人権侵害」 

 と

非難される ” 民主主義国 ” 

   は 

世界広しといえども、日本だけであろう。


 二十一世紀を迎え、

日本の中でも 「 アメリカからの押しつけ憲法 」 

から脱却し、

 自主憲法を制定しようという動きがさかんになってきた。

 

憲法改定のことを口に出すだけで 「 右翼 」 だの 「 軍国主義者 」 

 だのと批判された時代から考える

と、

まるで嘘のようである。


だが、

憲法を変えれば、 

 すべては丸く収まるのかといえば、 

 

残念ながらそうではない。

 

 憲法を活かすためには、 

 

まず

現在の教育を考え直すところから

 始めなければ、

 

今の日本はけっして再生することはない

 のである。

 

そのことを強調して、

 この章の締めくくりにしたい。

 

 

「 雪月剛のブログ89 」、パート20 

 「 敗戦国の逆襲 」 を防ぐ最良の方法とは(162P) に つづきます―――― 


  2020年5月10日

                 雪月 剛(ゆづきごう)

 

――以上がリブログ…

    長文を

     真にありがとうございました。

 

 

下記は拙著。