日印エピソード②-3(終盤)【パール判事】 | ろっきぃのお酒ブログ

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こんにちは ニコニコパー

 

日本に関係するインドのエピソード第2回

「パール判事」終盤全4話の3話目)です。

 

パール判事については前回をもって仕上げるつもりでしたが、調べれば調べるほど(いつも以上に)新たな発見が相次ぎ、また「1回のアップロード容量」を超えてしまいました ショック!

 

そこで、終盤として、「これだけは書き留めておきたい」…

 

パール判事にまつわる6つのエピソード

 

のうち1.をご紹介します下差し

 

1.さらに2人の判事からも「反対意見書」が !!

 

(以下は次回の完結編で)

2.安倍前首相、パール判事のご遺族と面会

3.インド首相、パール判事に言及

4.パール判事の顕彰碑

5.パール判事が日本国民に贈った言葉

6.後年のパール博士

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

1.さらに2人の判事からも

「反対意見書」が !!

 

前々回の「印エピソード②-1(序盤)【パール判事】」で触れましたが、東京裁判での「全員有罪」判決に対して「反対意見書」を提出した判事は…

 

パール判事を含めて3名いたのです サーチ目

 

5本の意見書のうち、「反対意見書」は①~③の3本です

 

そのなかで、パール判事だけがクローズアップされている理由は、彼が「被告全員の無罪を主張したからでしょう。

 

しかし…

 

パール判事以外の2名は「戦勝国側の判事」であるにも拘らず、(当時は独立途上にあったインドのパール判事と同様に)“多数決に甘んじることなく、堂々と“法理論”と“正義”を貫いたという点で、要注目です サーチ目

 

今回はそんな2人の判事を“深掘り”してみました ニコニコ

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

① レ―リンク判事(オランダ)

(Henri Röling 、1906~1985年)

 

(以下は、平成30(2018)年8月15日付産経新聞「緯度経度」(三井美奈記者)より抜粋・編集しました)

ベルト・レ―リンク氏は、昭和21(1946)年から約2年間、オランダに妻と5人の子供を残して日本に滞在。東京裁判の判事団の一人として参加しています。

(赴任時の年齢は、判事団のなかでは最も若い39歳でした)

 

 

メモ 同年3月には、原爆投下後の広島を上空から視察

レ―リンク判事はこのときの印象を次下差しのように書き残しています:

ひらめき電球 「大地は真っ平らになり、石造の建物はほとんど残っていない。荒涼として悲惨な土地だ。」(レ―リンク判事の日記より)

昭和20(1945)年10月の広島市舟入地区(イメージ)

 

レーリンク反対意見書の主旨

 

 

① 平和に対する罪:

ひらめき電球 死刑を適用すべきではない

ひらめき電球 共同謀議の認定方法には異議がある

 

② 通例の戦争犯罪および人道に対する罪:

広田弘毅

ひらめき電球 「通例の戦争犯罪」では無実であり、

ひらめき電球 「平和に対する罪」では有罪だが、死刑にすべきではない

 

その上で、広田弘毅元首相や東郷茂徳元外相ら5名を「無罪である。」と主張しました。

 

レーリンク判事の真情

 

メモ 東京裁判では「戦勝国の判事としての立場にあったレ―リンク判事でしたが、パール判事の公平さを訴える考え方に影響を受けました

 

以下下差しは、それを物語るエピソードです:

 

ひらめき電球 「私はパール判事のように、独立した意見を示そう。この考えに興奮しながら、一晩を過ごした。」(レ―リンク判事の日記より)

 

メモ 判事団の採決が終わり、判決文の翻訳が始まる昭和23(1948)年7月6日、レーリンク判事は友人の外交官宛に次の下差しような手紙を送っています:

ひらめき電球 「多数派の判事の判決要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の感を抱くようになった。これは極秘の話だが、この判決はどんな人にも想像できないほどひどい内容だ。」

 

メモ また、「ビルマの竪琴」の作者であるドイツ文学者の竹山道雄氏の著書「ヨーロッパの旅」によると…

 

竹山道雄氏(1903~1984年)

「ビルマの竪琴」(中央公論社 1948年)と

「ヨーロッパの旅」(新潮社 1957年)

 

昭和31(1956)年、オランダのレ―リンク氏の自宅を訪ねた竹山氏に対して、レーリンク氏は次のように語りました:

(平成30(2018)年8月17日付産経新聞「阿比留瑠比の極言御免」より)

昭和47(1972)年(55歳)のレ―リンク判事

 

ひらめき電球 「あの判決は誤りだった。もしあの裁判がいま行われれば、あのようには考えられないだろう。俘虜(ふりょ)虐待などの通常の戦争犯罪は別として、政策の結果として起こったことに対しては、ああいう結論にならなかっただろうおおむねインド人のパールのように考えたであろう。」

ひらめき電球連合国側には共産主義の脅威ということは念頭になかった。(中略)外部からの挑戦 ‐ それへの反応ということについて、はなはだしい“見落とし”があった。その後まもなく中国が赤化したのを見て、そうだったのか、それほどまでにも脅威が迫っていたのかと驚きこの点は全く考え直されるようになったあのときの判事たちは法律家ではあっても、国際関係に通じている人々ではなかった。」

 

さらに…

 

ひらめき電球 東京裁判でレ―リンク判事は“文官の無罪”を主張し、「禁固7年」の判決が下された重光葵元外相について、マッカーサー元帥に懇願し、重光の赦免に尽力しました。

 

 

その甲斐もあって、昭和25(1950)11月、重光氏は服役2年で仮釈放されます

 

ひらめき電球 レ―リンク氏は知人に宛てて次のような書簡を書いています:

大変嬉しい。彼には将来、日本外交で役割を担って欲しい。」と。

 

重光氏レ―リンク氏宛に次の下差しような礼状を送っています:

ひらめき電球 「あなたの深い理解に感謝する裁判を通じて私は、自分のやってきた仕事を公にすることができた。」

ひらめき電球 その後、重光氏は再び外相となり、昭和31(1956)年12月18日、日本の国連加盟の受諾演説で、「日本は東西の懸け橋になる。」と誓いました。

 

重光氏は「これで私は日本国に尽くせるだけのことをした。」と言い残し、翌月の1月26日にこの世を去りました(享年69歳)。

 

国連総会は重光氏の死を悼み、追悼の黙禱が行われたそうです。

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

② ベルナール判事(仏国)

(Henri Bernard、1899~1986年)

 

アンリ・ベルナール判事に関しては誠に情報が少なく、ベルナール判事起用の経緯彼のバックグラウンドについては、主に大川雄一郎氏(テレビ東京)著の「東京裁判 ‐ フランス人判事の無罪論」から引用させていただきました。

 

「東京裁判 ‐ フランス人判事の無罪論」著者の大岡優一郎氏

 

昭和20(1945)年末、米国国務省はフランス政府に対し「判事と検察官を指名するよう」要請しましたがなかなか決まらず、翌年1月22日に再要請しています。

 

アンリ・ベルナール氏は3番目に指名された判事。前の2名が指名を断ったため、当時フランスの植民地コンゴに駐在していたベルナール氏に“お鉢が回ってきた”ということらしいです。

(赴任時の年齢は46歳でした)

 

 

ベルナール反対意見書の主旨

 

 

ひらめき電球 ① 「日本におけるマッカーサーの立法権限にいかなる制限もない。」と肯定することに全く賛成できない

ひらめき電球 ② 「無条件降伏を手に入れた征服者があらゆる主権を行使できる。」などと言い切るのは間違いである

 

ベルナール判事の真情

 

東京裁判でベルナール判事は:

アメリカの原爆投下を批判し、

天皇の戦争責任を激しく追及しながら、

被告の誰一人の罪をも認めなかったそうです。

 

この背景として、ベルナール判事は(「英米法」ではなく)「大陸法(自然法)」に則って:

侵略戦争は東京裁判所憲章などに拠らなくとも十分に裁けるとし、

国家の戦争の下における個人の戦争責任も問える

としていました。

 

注:英米豪が採用している「英米法」は「法なければ犯罪無し」を原則としているため、それ故に、弁護側からの「法律不遡及の異議申し立てに窮していたのに対して、フランスを始めとするヨーロッパ諸国の多くが採用する「大陸法(自然法)」には、そのような原則はないため当然に退ける、ということのようです。

 

 

さらにベルナール判事は…

 

一切の戦争責任は天皇にあり

故に、東京裁判の被告たちには罪がない

天皇に戦争責任がないのであれば、被告たちの罪は著しく不公平である

という立場にありました。

 

このような真情に基づき、ベルナール判事反対意見書は、戦勝国の“正義の原則”に真っ向から立ち向かった結果として出されたものでした。

 

お願い お願い お願い

 

(今回は、珍しくまだアップロード容量がありますので…)

 

全部で5本の「意見書」のうち、今回ご紹介した3本の「反対意見書」以外の残りの2本の「意見書」についても、ごく簡単にご紹介しておきますね。

 

ウェブ裁判長(豪州)の「別個意見書」

 

ウェブ裁判長(William Flood Webb。1887~1972年)

 

東京裁判当時、「白豪主義」(白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策)を採っていた豪州にあって、ウィリアム・ウェブ裁判長(1887~1972年)も反日主義者として知られていたようです。

 

着任したウェブ裁判長の、裁判の開会の辞がこちらです下差し

「被告たちはかつて如何に重要な地位にあったにしても、それがために受ける待遇は、最も貧しい日本兵、あるいは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない。」

 

さらに…

 

“裁判長権限”としての彼の「却下」の乱用と「却下理由」の不開示は、列挙するのが嫌になるほど虫唾(むしず)が走ります。(すみません。詳しくはネット検索してくださいね)

 

また…

 

前出のレ―リンク判事(オランダ)によれば、「ウェブ裁判長は酒気帯び状態で出廷したこともあった。」とのことです。

 

このようなバックグラウンドのなかで、ウェブ裁判長は(豪州政府の意向も意識して)次下差しのような別個意見書を提出しています:

 

① 多数派と同じく「憲章の拘束力を認め不戦条約によって侵略戦争の不当性を是認

② 天皇不起訴にも拘らず、天皇の戦争責任を踏まえて、被告の減刑を考慮すべきであると主張

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

ハラニーリャ判事(フィリピン)の「同意意見書」

 

ハラニーリャ判事(Delfín J. Jaranilla。1883~1980年)

 

フィリピンは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦(1941~1942年)において、バターン半島で日本軍に投降した米軍・米国領フィリピン軍の捕虜が捕虜収容所に移動する途中(全長120㎞)で多数死亡したという悲惨な経験を持っていました。

(フィリピンでは、日本軍が米国を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を「勇者の日」とし、フィリピン・米国の戦死を称える休日としています)

 

このような歴史的背景を持つがゆえに、徹底した親米派のデルフィン・ハラニーリャ判事は次下差しのような同意意見書を提出しています:

 

 

一部の刑は寛大過ぎると批判

原爆投下が早期決戦をもたらした

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

次回は…

 

パール判事にまつわる6つのエピソード

 

完結編として2.から6.までをご紹介します下差し

 

2.安倍前首相パール判事のご遺族と面会 !!

3.インド首相パール判事に言及 !!

4.パール判事の顕彰碑 !!

5.パール判事が日本国民に贈った言葉 !!

6.後年のパール博士 !!

 

ゾウ ゾウ ゾウ

 

今回の一句です。

 

反対意見書を提出したパールベルナールレーリンク3判事を想って…

 

 

ではでは ニコニコ

 

ちょこっとインドに興味のある、ろっきぃでした ニコニコパー