こんばんは
“日本”に関係するインドのエピソードの第2回目の中盤(本編)(「パール判事」全4編のうちの2回目)です。
前回は「東京裁判」についてお話ししました。
(日印エピソード②-1(序盤)【パール判事】をご覧ください)
いよいよ今回は…
本編 : パール判事
ラダビノード・パール(Radhabinod Pal、1886年~1967年)氏とは、東京裁判の11人の判事団の一人として、独立途上のインドから加わった人物です。
当時、彼は60歳でした。
ラダビノード・パール判事
東京裁判での主張
パール判事は、戦犯に適用された罪状、すなわち…
① 「平和に対する罪」(A級)
② 「通例の戦争犯罪」(B級。降伏者の殺傷、禁止兵器などの戦時国際法違反)
③ 「人道に対する罪」(C級。一般または集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為)
に関して、次のように主張しました:
① 「日本が戦争を開始した時点で、“戦争”は国際法上違法とされておらず、『平和に対する罪』(A級)と『人道に対する罪』(C級)は事後法(法律制定前に犯した罪)にあたり、罪刑法定主義の原則(法律制定前の罪は罪に非ず)に反する。」
② 「非戦闘員の虐殺や捕虜虐待などの『通例の戦争犯罪』(B級)については、被告の関与は証拠不十分。」
その上で…
11名の判事のなかでただ一人「被告全員の無罪」を主張したのです。
しかし…
判事団11名による多数決の結果…
25名の被告は、全員有罪(絞首刑7名、終身禁固16名、禁固20年1名、禁固7年1名)となりました。
パール判決書の提出
すると、パール判事は…
かねてより書き溜めておいた個別反対意見書(=パール判決書)を提出。
「パール判決書」は全7部で構成され、英文で1,235ページにおよぶ膨大なものでした。(判決書よりも多いページ数)
パール判決書の内容を簡単にご紹介すると:
第1部:予備的法律問題(P.1~226)
① 裁判官が戦勝国のみの判事で構成されており不公正。
② 東京裁判は国際法に則っていない。
③ マッカーサーが作った裁判所条例に基づく裁判に、法的価値はない。
④ 管轄は、ポツダム宣言の範囲から逸脱している。
⑤ 敗戦国にも主権はある。
⑥ 侵略戦争の定義はない。
⑦ 戦争は犯罪ではない。
⑧ 侵略戦争の責任は国家が取るべきであり、個人には及ばない。
第2部:「侵略戦争」とは何か(P.227~279)
① 侵略戦争と自衛戦争の区別は難しく、日本の戦争は一方的な侵略戦争とは断定できない。
第3部:証拠及び手続きに関する規則(P.280~348)
① 膨大な証拠は公正な手続きによって受理されたものではなく、証拠として価値あるものではない。
第4部:全面的共同謀議(P.349~1014)
① 訴追事由の一つである「共同謀議」については、内閣が何度(14回)も交代した日本の政情から見て、検察側の「共同謀議論」は妄想であり、これを全面的に否定する。
第5部:裁判の管轄権(P.1015~1026)
① ポツダム宣言での「戦争」とは太平洋戦争(昭和16(1941)年)を指しており、満州事変(昭和6(1931)年~昭和8(1933)年)やノモンハン事件(昭和14(1939)年)は含まれていない。事後的に管轄権を拡大するのは不法である。
第6部:厳密なる意味における戦争犯罪(P.1027~1225)
① 被告たちは非道(俘虜の虐待・大量の非戦闘員の殺戮・放火・略奪)を部下に命じた者たちではない。この意味で、この裁判は無効である。
② 非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原爆投下を決定した者こそを裁くべきであろう。
第7部:勧告(P.1226~1235)
① 上記のことから、東京裁判は復讐であり、占領政策の宣伝効果を狙った政治行為である。
② このような裁判を行ったことは、文明の恥辱である。
パール判決書の主旨
「法の下の正義」
パール判決書の評価のポイントは、「日本を愛するヒューマニスト」といった単純な感情論ではなく、国際法の専門家としての法理論と正義をもってパール判決書を纏めた点でしょう。
簡潔に纏めてみると…
① 裁判の法的根拠を批判し、
② 証拠も不十分である、
と結論づけているのです。
ということであって、決して…
敗戦国日本に同情したり、日本の行動を正当化している訳ではないのです。
というのも…
パール判決書には、このような記述もあるからです
① 昭和6(1931)年の満州事変について:
「何人もかような政策を称賛しないであろう。」
② 昭和12(1937)年の南京事件について:
「残虐行為の証拠は圧倒的である。」
③ 太平洋戦争全体について:
「残虐行為の鬼畜のような性格は否定し得ない。」
しかし…
当時、パール判決書が公開されることはありませんでした
A級戦犯の辞世の句
ただし…
東京裁判の被告たちは、このパール判決書に接していたようです。
その証として、彼らが残した辞世の歌をご覧ください
(句中で詠まれている「ふみ」とは、パール判決書を指しています)
「百年の 後の世かとぞ 思いしに
今このふみを 眼のあたりに見る」
「ふたとせに あまるさばきの 庭のうち
このひとふみを 見るぞとうとき」
「すぐれたる 人のふみ見て 思うかな
やみ夜を照らす ともしびのごと」
「闇の夜を 照らすひかりの ふみ仰ぎ
こころ安けく 逝くぞうれ志き」
さらに、東條英機の遺書には、次のような一文が記されていたそうです:
「東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様の権利を持つべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。
インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。」
“終末”を目の前にした東條英機は、果たして…
パール判事の言動と重ね合わせて、改めて自身の“本意”の一部(大東亜共栄圏の確立)を後世に伝えておきたかったのか
それとも、死した後であっても自身の“有罪”を晴らしたかったのか…
パール判決書執筆中のエピソード
東京裁判の2年半のあいだ、ほかの判事や検事が休日ごとに観光旅行や宴席にあるときも、パール判事は一人帝国ホテルの自室に籠って、休日もなく資料を蒐集し、読破していたそうです。
その数は資料45,000冊、参考書籍3,000冊に及ぶと言われています。
(イメージ)
パール判決書の公開
平和条約に署名する吉田茂首席全権(1951年9月8日)
(平和条約の発効は翌年4月28日)
パール判決書が世の中の知るところとなるのは、GHQによる発禁終了を待ち、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27(1952)年4月28日当日に発刊された次の本が発端となっています:
左は第4版 右はその文庫本(2000年に再刊)
著者は田中正明氏(1911~年、大亜細亜協会、興亜同盟にてアジア解放運動に従事。戦後は南信時事新聞編集長を経て、世界連邦建設同盟事務局長、国際平和協会理事長などを歴任)。また、東京裁判で絞首刑となった松井石根被告(陸軍大将)の秘書を務めており、パール判事とも知己の間柄であった人物です。
田中正明氏
「パール判事の日本無罪論」はパール判決書を中心として、マッカーサーも認めた「東京裁判の不正」を始め、戦後一部の日本人が抱いた「東京裁判史観」や「自虐史観」という呪縛を解く内容とされています。
関係者・識者の述懐
「パール判事の日本無罪論」には、東京裁判の判決の後に米国を中心とする東京裁判の関係者・識者が語った言葉が載っています。
驚くべきその内容を引用します:
ダグラス・マッカーサー(陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官)
「彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(昭和26(1951)年。米国上院軍事外交合同委員会)」
「もしわれわれが日本人を挑発しなかったならば、決して日本人から攻撃を受ける様なことはなかったであろう。」
エドウィン・ライシャワー(米国の東洋史研究者・ハーバード大学教授)
「軍事法廷はかく裁いた。だが歴史は、それとは異なる裁きを下すだろうことは明らかである。」
カール・ヤスパース(ドイツの精神病理学者・哲学者・政治評論家)
「一つの民族だけが、戦争の責罪を負わなければならない義務はないと思う。」
パール博士の再来日
東京裁判が結審した後も…
パール博士は合計3回来日しています。
昭和27(1952)年10月26日から11月28日:
平凡社の創業者、下中彌三郎氏が私費をもってパール博士を招聘し…
① 東京では明治、早稲田、日大など各大学のほか、日比谷公会堂でも講演。
② 次に、京都、大阪、神戸で講演。
③ さらに、11月3日からの4日間、原爆の地、広島で開催された「世界連邦アジア会議」に参加。
パール博士著、田中正明編著「平和の宣言」
の「平和の宣言」によれば、11月5日に広島平和記念公園の原爆戦没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を通訳を通して聞いた後、パール博士は、日本人が日本人に謝っていると理解し、「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない。」との主旨の発言をしています。
そして、その後「碑文論争」にまで発展した次の有名な言葉を残しました:
「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落とした者の責任の所在を明かにして、『私は再びこの過ちは犯さぬ』というのなら肯ける。しかし、この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。」
「ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常に立派な決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現を用いないのか。」
「原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない。」
④ 最後に、福岡で頭山満(とうやま みつる、明治から昭和初期のアジア主義者の巨頭)氏の墓に詣でて、九大でも講演。
⑤ 東京に戻ると、「中村屋のカレー」を作ったインド独立の運動家ラス・ビハリ・ボース氏の墓や、東京裁判で絞首刑となった7名のA級戦犯が眠る熱海の興亜観音にも参詣されました。
(ラス・ビハリ・ボース氏については、日印エピソード①【独立の立役者】の後半部分をご覧ください)
昭和28(1953)年:
下中彌三郎氏の招聘で3度目の来日。
パール博士(左)と下中彌三郎氏(右)
昭和41(1966)年:
清瀬一郎氏(東京裁判の日本側弁護団副団長と東條英機元首相の主任弁護人)、岸信介氏(首相)などの招聘で4度目の来日。
このときの来日に同行したご長男のプロサント・パール氏は次のように語っています:
「彼はいつも『I love Japan.』と言っておりました。
パール博士直筆の「I love Japan」
『もし日本が私に住むところを提供してくれるならば、私は日本に永住したい。』とさえ言っていました。ですから、空港で見送りを受けたとき、日本の方たちが『さようなら』と言ったとき、父は『“さようなら”という言葉は聞きたくない。私はこの日本を愛している。私は、この日本に骨を埋めたいんだ。』と言いました。それが父の最後の望みでした。」
パール判事の長男、プロサント・パール氏
翌年(昭和42(1967)年)、パール博士はカルカッタ(現コルカタ)の自宅で逝去されました。(享年80歳)
おまけ
(私はまだ行ったことはありませんが)箱根の芦ノ湖畔にある「パール下中記念館」は、前出の下中
ご遺族から贈られたパール判事の書簡や原稿を始めとする遺品や東京裁判関連の資料などが展示されているそうです。
下の画像は、パール下中記念館開館時の式典で、記念館発起人の一人である岸信介総理大臣との歓談・記念品授与式の模様です。
岸首相から贈られた宝船の置物
次回と次々回は“パール判事(終盤)”として…
今回書き切れなかったエピソードをお送りします。(2回に分けてですが…)
その内容は、こんなに盛りだくさん
1.さらに2人の判事からも「反対意見書」が
2.安倍前首相、パール判事のご遺族と面会
3.インド首相、パール判事に言及
4.パール判事の顕彰碑
5.パール判事が日本国民に贈った言葉
6.後年のパール博士
今回の一句です。
今年のお正月はパール判事に学ぶところ大でしたので…
ではでは
ちょこっとインドに興味のある、ろっきぃでした