奥田民生になりたかった昔ボーイ
8月6日(木)。広島原爆の日だ。今日は、昨夜の学校説明会の超過勤務の関係で早上がりだった。広島原爆の日ということで今回は、かつて私が影響を受けた広島県出身のミュージシャン、奥田民生への思いを記したい。これが、わりと私の人生のスタンスに関わることだったりするのだ。かつての自分を振り返ると共に、思い出を記そうと思う。私が中学生だった1987(昭和62)年4月から1990(平成2)年3月までの生活には、いつからか音楽が入り始めた。主にはBOØWY、BUCK-TICK、X(のちのX JAPAN)などのいわゆるロック系ジャンルだ。「気合いが入った」、「カッコいい」バンドだ。それが、そのまま、私の憧れだった。その頃、当時からユニコーンの存在は知ってはいたが、まだ私の関心は向かなかった。そんな音楽的嗜好とそれに憧れるスタンスは高校時代も変わることなく続いた。この頃に、クラスの、とあるグループに属していた。当時の私は一人でいられるほど強くもなかったから仕方ないのだが、大して面白くもなく、そこでの私自身の存在意義も感じられない不毛な集まりだった。だが、当時の私はそんなとこに無理して居つづけた。しかし高校を卒業して、そのグループも散り散りになった。それでもその後、私はメンバーから節目ごとに集まりの連絡があれば義理堅く顔を出し、大してうまくもないのに盛り上げようと頑張った。それが大学1年生頃のことだったと記憶している。そんな大学1年目の秋頃に、どこからともなくユニコーン解散の知らせを聞いた。特に何の感慨もなく、日々を過ごした。そんなある日、大学でよくつるんでいた仲間の車に乗せてもらって帰る時に、その彼がカーステレオで流したのが、ユニコーン解散に伴ってリリースされた彼らのベストアルバム『THE VERY BEST OF UNICORN』だった。その彼とは気が合って、よく車に乗せてもらい、何度もそのベストアルバムを聞いた。その中で、私が心惹かれたのが、そのアルバムのラストナンバー「すばらしい日々」だ。後日知ったが、これが解散前最後のシングル曲だったそうだ。それはともかく、私は特に、その歌詞に魂を揺さぶられた。「懐かしい歌も笑い顔もすべてを捨てて僕は生きてる」というフレーズ。今まで、 いたくもないところに頑張ってしがみついていた自分には全くない姿勢。 「なんだ?このスタンス!この人生観!」当時、この時点では私は誕生日を迎えていなかったはずなので、まだ18歳だったと思う。1965年生まれの奥田民生は私の9つ上だ。当時28歳。18、9歳の私にとっては、28歳とか、ましてや30歳なんて、凄く大人の人という感じだった。「すばらしい日々」の歌詞は、そんな大人から放たれるメッセージだった。それは肩の力が抜けた、無理しないスタンスでいることの心地よさみたいなものだった。だが、奥田民生も、ユニコーンもはじめからそうではなかった・・・はずだ。かつて「PATIi・PATi(パチパチ)」という音楽雑誌(?)があった。そこでユニコーンの初期の名曲「Maybe Blue」の頃に髪をツンツンに立てた奥田民生の姿を見たことがあった。その記憶にある姿や楽曲と、晩年のそれらを比較すると、「ああ、こうやって変化していくものなんだ。」とひとり納得したのだった。同時に、私自身の、つまらないグループに属していた高校時代、卒業後も変に気を遣ってそこで頑張っている姿を思った。「俺は何をやっているんだろう?」私はユニコーンというバンド、とりわけ奥田民生に興味を持った。もう解散後なのに(とは言え後年再結成するのだけど)だ。そういう訳で、遅ればせながら、そのベストアルバムを購入した。その後にリリースされた『THE VERY RUST OF UNICORN』も購入した。そして、奥田民生のインタビュー記事が載った雑誌を読んだりもした。今なら「にわかファン」などと揶揄される向きもあろうが、彼にインスパイアされてしまったのだから仕方ない。ファンになる瞬間というのは、またファンになるというのは、そういうものだ。ユニコーンの楽曲は、それはもちろんよかった。元々人混みが嫌いな私には、「雪が降る町」の感覚もよくわかったし、ギターの手島いさむ作詞・作曲の「自転車泥棒」では、ユニコーンは奥田民生だけではないのだとも知れた。夏を強く感じるのに浮かれてない曲で、私は好きだ。世の多くの夏の楽曲は色恋ばかりで、浮かれてて、みっともなくて好きになれない。その他にも、「忍者ロック」で阿部義晴が、「ブルース」で川西幸一が、「ペーター」でEBIが、その才能を遺憾なく発揮していた。おそらく他にも多くの楽曲があるのだろうが、皆が作詞、作曲を出来るという、実力者の集まったバンドだったのだと知れた。解散後にはそれぞれが、それぞれの活動に向かっていった。EBIは解散翌年に放映されたドラマ「若者のすべて」に出演していた。キムタクと萩原聖人主演のドラマだった。EBIはキムタクと昔からの友人という役どころだが、初回の極めて序盤で、暴漢に暴行を受けて意識不明のまま寝たきりになる、という設定だった。その後、ずっと出番はなく、最終回の一回前だったと思うが、突然EBIの意識が戻るも、すぐに亡くなってしまうというストーリーだった。EBIがそれでよかったのかは分からないが、あの頃、人気俳優を起用するだけの、内容のうっすいドラマが量産された印象がある。残念ながら、あれもそのひとつだったと私は思っている。さて、奥田民生はと言えば、EBIのそれと同じ年、1994(平成4)年の晩秋の頃、ソロ活動を開始した。ファーストシングル「愛のために/c.w愛する人よ」がリリースされた。「すばらしい日々」を経て、そのスタンスのままソロに移行してきた印象を受けた。かつて憧れたロックスター達は引き続き好きだったが、どう考えても、私が「成れる」ものではない。一方、奥田民生もいい男だが、そういう土俵から降りたような、ゆるいおっさん感を当時から出し始めていた。そしてビジュアル的に恵まれていない私だが、ゆるいおっさん感は出せそうな気がした(もちろん奥田民生ほどいい男ではないが)。「もう、これだ。俺もこのスタンスで生きていく!」そう思った。もはや私にとって、奥田民生はミュージシャンではなく、人生との向き合い方を教えてくれた「奥田民生先生」 だったのだ。カッコいいとか悪いとか、誰が上とか下とか、そんな土俵から降りて、ゆるいおっさんになって、海面に漂うクラゲみたいに生きようと思った。ただ、断っておくと、あくまでこれは私のいだく奥田民生像であり、奥田民生に対する私なりの解釈に過ぎない、ということを付け加えたい。後年、「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」という漫画原作らしい映画が公開された。結局未見だが、当時、このタイトルの「奥田民生になりたい」の部分を見て、「俺もだったわー!」と、その昔を思い出したのだった。やはり一定数、そういう人間がいるのだ。さすが民生先生!時間は私の大学生当時に戻る。奥田民生先生に出会って、もうこの頃には高校時代のつまらないグループには連絡を取ることはなくなっていた。向こうからも連絡は来なくなった。その後も奥田民生先生憧れで生き続けた。頭にタオルなんか巻いて、民生先生も好きな釣りなんかもした。これも私の勝手なイメージに基づく行動だが。そんな感じで、色々あったが、大学3年の終わり頃のこと。まる2年ぶりくらいに、つまらないグループから連絡が来た。その中心人物、仮にAとしておくが、その彼からだった。集まりならきっぱり断るつもりで電話に出た。しかし、それは違っていた。内容は大学卒業後の進路の話だった。彼は、高校卒業後、東京の大学へ進学した。何だかよく分からない男だった。彼は、そのつまらないグループ内の女子の一人が好きだみたいなことを言いながら、東京で女性と遊んでる感じを金沢に帰ってきては自慢げに話す男だった。あからさまな自慢なら、まだいいが、その行為で「女の子を傷つけてしまって辛い。」とか、反省っぽく語るのだ。それも女子もいる席で。ところが、その女子たちも彼に共感的に「A君優しいからねー。」みたいな反応なのだ。もう、意味がわからなくて、気持ち悪くて、どういう風にその場にいたら良いのかわからなかった。そんなAが、何の用かと思えばこちらで就職したい、出来たら上級公務員になって石川県庁に入りたいと言う。「いやいや、知らんよ!」という返事しか出来なかった。あとは、当時の私の解釈による、民生先生のスタンスで対応した。何しろ、私は当時、父の治療院の後継者として育てられていたので、Aとは逆に卒後に金沢を離れる予定だった。また、この年に教育実習を控えていて、採用試験に合格出来れば、後継者を蹴って、石川県で高校教師になるつもりもあった。民間企業への就職活動は、ハナからする気はなかったし、教師ではない公務員という働き方も考えていなかった。だから情報など持ってはいなかった。その上、こちらも連絡はしなかったが、向こうからも長々連絡を寄越さないでおいて、就活の情報聞きたさに、よくも恥ずかしげもなく連絡してきたものだと呆れた。私はAに対しては、つまらないグループとか、女性をめぐるキショい態度とかはともかく、恨みがあったのだ。それは、「こいつとは、関わらないようにしよう。」と思わされた一件だった。大学1年生の終わりの春休みだった。かつての高校時代のクラスメンバーから飲みの誘いがあった(19歳で飲みとかないだろ、という話たが、当時はそういうことが普通にあったのだ)。男子だけの気楽な集まりだという。馬鹿な私は気を利かせたつもりで、同じクラスだったAにも声をかけた。当日の待ち合わせ場所と時間を伝えた。そして当日。懐かしいメンバーと再会して、盛り上がった。そんな中、当初からAの様子がおかしかった。やがて、突然Aは私に、「ちょっとついてきてくれ。」と声をかけてきた。私とAは、みんなに「ちょっとはずすから。」と店を出た。私はAに「どういうつもりだ?」と聞いたが、「まあまあ、」と取り合わない。 そのうちにどう歩いたのか、別の店に到着した。そこには、高校時代のつまらないグループの女子達が集まっていた。「どういうことだよ!?」と質すも、「まあ、飲もうよ。」とA。場を乱すのもカッコ悪いので、そこは合わせることにした。出ていっても良かったが、なにぶん土地勘がなく、前の店に戻りようもなかったのだ。今思えば、そのまま帰ってしまえば良かったのだが。相変わらずAは、ふやけた感じで愛だ恋だのを女子たちに語っていたと思う。そのままのノリでカラオケに行くのだが、そこで、元々飲んでいたグループと鉢合わせになる。いよいよ身の置き所のない私は、そこでようやく「もういいや。」と帰ったのだった。これで、私は高校時代のつまらないグループ以外のメンバーとも気まずくなってしまった。まさに「大迷惑」だった。でも、これには私の知恵の足りなさも原因していることは、今なら良くわかる。だが、Aがなぜ、あんな行動をしたのかは今もって分からないし、当時の怒りや恨みなどの感情はとっくに消え失せているが、Aが関わってはいけない人間だったのだという思いには今も変わりはない。後日、Aにはこの件で抗議をしたが、やはりまともに取り合うことはなかった。「まあまあ。楽しかったでしょ。」みたいなことを言われた記憶がある。それが大学2年の夏。Aに会った最後だ。そんなAが今、受話器の向こうにいる。いつも上からくるAが、えらく下手に出て、情報をくれという。虫の良い話ではないか。こちらの人間関係を損なうような真似をしておいて、就活の情報は寄越せという。「いや、企業の情報は持ってない。俺はみんなと違う道を行くから・・・。」とだけ伝えた。「それはなんだ?公務員になるのか?」と問われたが、「まあまあ、それはどうでもいいじゃないですか。就職活動なら俺と同じ大学の○○とか△△とか(いずれも高校時代のクラスメートの名前)がしてると思うから、そっちに聞いてみたら。」と言い終えて、一方的に通話を終了した。なんだか、スッとした。なんか、ずっと自分が「カッコつけよう」とか「良いやつになろう」としていたんだと気づいた。これまでの「すべてを捨てて僕は生き」ようと思った。これは奥田民生先生が気づかせてくれたのだ。それからAがどうなったかは知らない。他のメンバーのことも。あれからすでに30年になるが、会うことはなかったし、これからもないと思う。まぁ、その後も色々あったが、「人生は上々だ」。時は流れ、私も50歳を超えた。民生先生は昨年、還暦を迎えた。バラエティなんかにも出演したり、同郷の同い年の吉川晃司とユニットを組んだりもしている。吉川さんも最近、目の調子が良くなかったり、ライブが体調不良で中止になったりで心配している。カッコよくて、好きなミュージシャンで俳優だ。快復して再び、シブくてカッコいい姿を見せて欲しいし、ライブではシンバルキックを決めてくれることを願っている。さて、今の私が、かつての民生先生を振り返って見るとき、やはり若く感じる。今の私の感覚で見ると、ユニコーン解散当時の28歳の民生先生は若いのだ。蛇足だが、若い頃の吉田拓郎に少し似ていた。ソロ活動を開始した29歳の頃、ゆるいおっさん感を醸し出していたはずだが、今の私が見ると、ものすごく若い。全然おっさんに見えない。それでも民生先生は当時、若いながら、更に若い愚かな私に、つまらない頑張りの土俵から降りる、という選択肢を示してくれた。ただ、民生先生も若さゆえに、もしかしたら、本当にゆるかった訳ではないのかもしれない。それは解散の発表後だか、解散後だかの頃に雑誌で読んだように記憶しているファンのメッセージだ。民生先生は解散を発表した当時、「別に永の別れ、というわけじゃないから」みたいな発言をしていた。そのファンは彼のコメントを「ファンを突き放していると感じた」、みたいな話だったと思う。コメントの真意は民生先生ご本人にしかわからない。しかし、私も及ばずながら、28歳も29歳も生きてきた。もちろん、同い年だったとしても民生先生の方が大人だとは思うが、やはり若さはあって当然だとも思う。解散の本当の理由は、当人たちにしかわからない。だが、理由は何であれ、その先にやりたいことがあって、目指すところがあったら、それはやりたいし、行きたいのではないだろうか?ゆるいおっさん感を出しつつも、奥底に秘められた若さが当時の民生先生にもあったと推察される。その意志の強さが、コメントに滲んでしまったのではないだろうか。だから、そのファンはそれを「突き放された」と感じたのかも知れない。時に、強い意志というものは他者を遠ざけてしまうものだ。それは、民生先生がソロ活動を成功させる原動力になったはずだから、他者を寄せつけないほどに強かったことは想像に難くない。また、私自身は当時、確実にゆるくはなかった。民生先生に出会って、ゆるくやっていく、というスタンスは知れたし、そのつもりではいたと思う。だが、いかんせん若すぎた。私は当時21,2歳、無理もないと今なら分かる。自分のペースで生きようとは思うが、その妨げになるものに対しては強い拒絶を示していた。言うなれば「突き放すニヒリズム」みたいなものが、当時の私にはあったと思う。そんな私も、民生先生には成れないことはもう、分かっている。私は私でしかないのだから。誰とも違う、誰の真似でもない、他ならぬ私自身として生きていくだけなのだ。また、あれから時は流れて、ユニコーンは17年前に再結成された。そして現在、還暦を過ぎた民生先生は、やはり説得力のある、ゆるいおっさん然としたお姿を私に示してくれている。もはや名実共にゆるいおっさんだ。一方の私は、ミュージシャンではなく、専門学校教員、いわばサラリーマンなので、まんま民生先生をやってしまうと干されるかクビになる。普通の「働く男」なのだ。そして、繰り返すが、結局私は私でしかない。でも、自らの指針として、常に心の奥底に民生先生を祀り、崇め奉り、肩の力を抜いて、無理せずに生きていこうと思う。