面白い話が有る。「力 = 血から」というテーゼは、漢語で表現すれば、
「力」=「自血」である。「自」の字は、「己」の意味も有るが、英語で言う
「from」の意味、日本語で言う「~から、~より」の意味も有る。要するに,
「自血」と書いたさいは、「己の血」の意味を持ち「血から」の意味を持つ。
ところが…「己」の意味の「自」は、【Y】(自、20)、即ち、【Y】(手、20)であって、(※【井】(両児)に当たる)
これは、パーリ語の「kara」(手)であり、エジプト語の「kՅ-r‘」(春日)に当たる。
したがって、「血から」(自血)と表現したさいは、「から」の部分が、「kara」(手),
即ち、エジプト語の「kՅ-r‘」(春日)、古事記の「韓」(訶良)を表してゐるわけだ。
#とすれば…詩的メッセージにおける「己が血」(=自血)は、何処から見ても、
#「血から」を表す。「力」(チカラ)を表す。【Y】(力、20)=「utu」(日神)を表す。(※【Y】(手、20)を表す)
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また、加えて「dšrw」(血)=「dšrw」(wrath)=「沫雪」(天照大御神)は、
「utu」(日神)=「utu」(時)=「tr」(時)=「tr」(願)=「ty」(願)であって、
実は、倭語の「血」(智)は、エジプト語の「ty」(願)に重なり、このときに,
「韓」(訶良)=「utu」(日神)=「utu」(時)=「tr」(時)=「tr」(願)を含意。
結局、「血」(智)=「ty」(願)=「utu」(時)=「utu」(日神)=【Y】(力、20)。
【Y】(自、20)=「i」(自)=「i」(葦)=「tri」(葦)=「tr」(時)=「utu」(日神),
という話であり、「手」も、「自」も、「時」も、「葦」も、「願」も、「血」(沫雪)、だ。(※「血のモノリス」である)