もちろん、古事記の作者それ自体が、特定の登場人物に肩入れしている可能性は、
想定してよい。しかし、あくまでも、それは、本文から、それが読みとれる場合だろう。
読み手が勝手に肩入れするのは論外である。勝手に肩入れすれば、その読み手は、
古事記の作者の立場やスタンスから、むしろ離れてしまうことになる…注意すべきだ。
* * *
天照の詔別は、「勝った!」(自分の清明が証された!)と思っていたスサノヲにとっては、
思いも寄らぬロジックであり、意表を突かれたに違いない。なにより、「信じてもらえない」、
というショックが大きかったと思われる。とにかく、本当に、本当に、異心は無い。それゆえ、(※無かった)
「私の心は清らかです。だから、私が生んだ子として、たをやかな娘たちを我が子とします」
と言って、天照の詔別に忠実に従うことにより、自身の心の清らかさ(無異心)を示し、且つ、
「このような形で自身の心の清らかさを示したことに基づいて言うならば、私は勝ちです」、と、
本来の「勝ち」(男子を生んだら勝ち)とは異なる意味合いで、自身の「勝ち」を宣言するのだ。
#大事なのは、此処で新たに提示された「勝ち」は、本来の判定から言うと、
#「負け」(女子を生んだら負け・女子を得たら負け)である。そうである以上、
#当該の「勝ち」の宣言は、むしろ「負け」を積極的に受け容れるものである。
#要するに天照の詔別が暗に言う「貴方の負けです」(有異心)という判定を。
#天照の持つスサノヲ像(=邪心ありありの姿)を、意を決して体現することが、
#「於勝佐備、離天照大御神之営田之阿、埋其溝、~」云々という展開なのだ。