日本書紀の全30巻を通じて、「改元」と記されるのは、景行天皇元年条のみである。
「ここは即位の年を元年とした意」(新編全集)に理解しているが、これは強引である。
紀年の変更を暗示、ないしは明示するものである。崇神十年は西暦247年、十一年は
248年と見るべきである。崇神十年(247年)の「倭迹迹姫」(百襲姫)の「箸墓」の記事は
魏志倭人伝の「卑弥呼」を念頭に置くものだ。そう見立てて記事を構成しているのである。
巻三(神武紀)から巻六(垂仁紀)までの紀年は以降の紀年とは異なる。此の点が重要だ。
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【日本書紀による垂仁天皇の年譜】
崇神十年……247年(倭迹迹姫が箸撞陰而薨)
崇神11年……248年(四道将軍以平戎夷之状奏)
崇神29年……266年(1月1日に生於瑞籬宮)
崇神52年……289年(24歳で因夢祥以立為皇太子)
崇神68年……305年(12月5日に御間城天皇が崩御。時年百二十歳)
垂仁元年……306年(1月2日に即天皇位。御間城天皇を山辺道上陵に葬)
垂仁二年……307年(狭穂姫を皇后とする。誉津別を生む。纏向に都を置く)
垂仁三年……308年(天日槍来帰)
垂仁四年……309年(狭穂彦謀反)
垂仁五年……310年(狭穂彦与妹共死)
垂仁七年……312年(7月7日に「桷力」の記事) ← 「桷」は手偏
垂仁15年……320年(日葉酢媛を皇后とする)
垂仁23年……328年(誉津別30歳)
垂仁25年……330年(3月10日以降に「天照大神」が伊勢国に鎮座)
垂仁26年……331年(出雲国の神宝の記事)
垂仁27年……332年(兵器祭神祇)
垂仁28年……333年(天皇母弟倭彦命薨。殉死中止の命令)
垂仁30年……335年(大足彦に「汝必継朕位」と詔曰)
垂仁32年……337年(日葉酢媛命薨。埴輪を立てる)
垂仁34年……339年(亀が白石に化す説話)
垂仁35年……340年(高石池・茅渟池・狭城池・迹見池を作る。八百の池溝を開く)
垂仁37年……342年(大足彦尊の立太子。21歳)
垂仁39年……344年(石上神宮の神宝に纏わる記事)
垂仁87年……392年(石上神宝の記事)
垂仁88年……393年(出石の刀子の逸話)
垂仁90年……395年(2月1日に天皇命田道間守遣常世国、令求非時香菓)
垂仁99年……404年(7月1日に天皇崩于纏向宮。時年百四十歳)
明年…………405年(3月12日に田道間守至自常世国。田道間守三宅連之始祖也)
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上記は日本書紀に基づく垂仁天皇の年譜だが、その中でも最も注目すべきは、
「田道間守三宅連之始祖也」で記事が終わっていることだろう。既稿で述べたが、
「三宅」は【BY十】(家、523)を表し、数字の「参」(3)を表す。月宿の【参】に通じる。
そもそも垂仁天皇が月宿の【参】である点に鑑みれば、垂仁100年に当たる明年は、
即ち西暦405年は、傍通暦の【参】(4月5日)を提示するものと見るべきだ。その一方、
垂仁100年も、月宿の【亢】を表し、【AWKMA】(黒、91)を表し、魔方陣の「一」を言う。(※【亢】=【T】=「百」に注意)
なお、赤字で示した【角】(3月12日)と、西暦312年の呼応に関しても注意すべきである。
【AWKMA】(黒、91)~【角】(9月1日)~【角】(3月12日)~西暦312年…と連結している。(※後述も参照)
#ダニエル書7-5は、此の魔方陣の「一」を象徴する動物として、
#【DBA】(熊、10)を配当する。そもそも【参】=【Θ】=「十」だが、(※照応表を参照)
#その【OSR】(十、450)は、まさしく【参】(4月5日)を表す。これを、
#垂仁100年(西暦405年)という年が、示している、ということである。
#日本書紀の数字の扱い方も、その原理は、古事記に全く共通する。