【和歌山の旅】6月16日 紀三井寺 ② 尼寺の穀屋寺が焼き討ちから救った | その先、ヒカリ♥

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ご縁玉と寅の日お財布さまおまじない感謝祭の提唱者です!

 

救世観音宗

(ぐぜかんのんしゅう)

の総本山

 

本堂 救世殿

 

 

日前國懸社と

深い関係にあると

見られていたことが分かる。

 

嘉禎4年(1238年)の

日前宮文書によれば、

毛見郷は日前宮領に属し、

 

名草山を

「三井之神山」と称しているほか、

 

日前國懸社神主家57代国造

紀俊文の詠歌にも

名草山の名が見える。

 

また、応永年間

(1394年 - 1428年)には、

日前國懸社の祭礼に

警固の兵士を送ったという。

 

その他、興国寺

開山たる心地覚心(法燈国師)が

招かれて、

紀三井寺の南に

紀三井寺僧妙蓮のために建立された

報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと

興国寺の記録にある

 

 

 

中世紀三井寺の寺領は

49町を算したが、

天正13年(1585年)

羽柴秀吉による紀州征伐の際に

没収されて失われた

 

 

 

 

 

中世の紀三井寺は

多くの僧侶・子院が一体混然として

一山を形成する一山寺院であって、

 

妻帯僧が寺僧となり、

本堂脇には造営・修造のための

勧進を担う

穀屋(今日の穀屋寺)があったという。

 

寺僧の中からは、

法用を勤める法橋として

年老14名が充てられ、

 

これを当寺の

詠歌の詠み手でもある

花山院の永宣旨によって

許可されたというが、

その永宣旨は伝来しない。

 

穀屋は比丘尼寺であって

 

 

 

 

観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、

参詣者に配札していた

 

また、元禄11年(1698年)の

「穀屋寺移転ニ付口上書」は、

 

天正13年(1585年)に

穀屋比丘尼の春古は

羽柴秀吉の紀州攻めに際して、

秀吉との直接交渉に臨んで

山内安堵の証文を得たことにより

焼討を回避したと伝えており、

 

このように積極的な活動を示した

穀屋は、

他の諸寺社にも見られるように

堂舎の再興修復を通じて、

それまで以上に大きな役割を果たし、

寺内における地位を高めた。

 

穀屋寺は

楼門から入って、右側

かつては本堂の横にあった

有力な寺院であったが、

宝永2年(1705年)に

現在地に移転させられた

 

 

 

 

十一面観音菩薩

 

おん まかきゃろにきゃ そわか

 

 

ふるさとを

はるばるここに紀三井寺 

花の都も近くなるらん

 

 

 

 

 

 

海南市あたり

 

 

 

下津町あたり

 

 

 

沖ノ島

 

地ノ島は、隠れているか

 

 

 

 

 

 

 

 

駆け足で周りました

 

 

 

 

 

 

早く、購入した、この本を

読まねば♪