東へ行って負けた神武天皇 紀元節はすでに廃止 | その先、ヒカリ♥

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蛯原さまの考察
シェアさせて頂きました
 





『古事記の神武東征』
〜東へ行き戦いに負ける神武天皇


故、其の国より上り行でましし時、
浪速渡(なみはやのわたり)を経て、
『青雲の白肩津(しらかたのつ)』に
泊てたまひき。
此の時、
登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、
軍を興して待ち向かへて戦ひき。
爾に御船に入れたる楯を取りて
下り立ちたまひき。
故、其の地を号けて楯津と謂ひき。
今に日下(くさか)の蓼津(たでつ)と云ふ。




神武東征の古事記原文で
問題な解釈は、
ここなんです。


青雲之白肩津


【蛯原解釈】


【青雲】 
(昇る日神、青は陰陽五行では陽、
或いは神聖な)

【白肩の津】 
西の端の陸地の先



*青雲之白肩津

青雲の白は、
太陽の通り道。(東西の緯、よこ)
青と白は一対であり
陰陽五行では東西。

経、肩津=楯津=縦津=経(たて、西の経)、
日の下の津、日が沈む津。

故從其國
上行之時。 

浪速之渡而。 

青雲之白肩津。



【読みと解釈】

○故從其國
上行之時。 

日神(神武)、その國に
上陸する時、

○經
浪速之渡而。 

波速
(潮の流れの速い、或いは難波の)の
海を渡りて経る(通過する)

○泊
青雲之白肩津

日神は
西の端の陸地の先(津)で泊まった。
(太陽の通り道の東西の太陽が
沈む西で泊まった)

これは、
楚辞九歌『天狼』に出てくる
部分に対応していて、
日神(神武天皇)の間違って進んだ道を
示しているんです。

*『楚辞』は、
中国戦国時代に楚の国で謡われた
歌謡を集めた作品群を、
そのように呼び、
このうち「九歌」は、
楚の南方に伝わっていた神楽歌を、
屈原が新たに作り直したものとされ、
多くは
東皇太一(=最上神)や「雲中君」(=雲の神)、
「湘君」 (湘水の神)などの
個々の神々を題としています。



「九歌」のうちの「東君」には
『天狼シリウス』が記載されており、

東君は
日の神を意味していますので、
日の神の子(天神の中でも太陽の子)である
神武天皇に対応しているのです。



『楚辞九歌 天狼』

青雲衣兮白霓裳
挙長矢兮射天狼
操余弧兮反淪降
援北斗兮酌桂漿
杳冥々兮以東行

青雲の衣 白霓の裳
長矢を挙げて天狼を射る
余が弧を操って反って淪降
北斗を援いて桂漿を酌む
余が轡を撰つて高く駝翔すれば
杳かに冥々として以て東に行く

【訳】
太陽のわたしは
『青雲の上衣に白霓の裳
(日は東から昇り、西へ沈む、
東西の道にいる)』
をつける。

太陽の光の長矢を以て
天狼星(シリウス)を射る。

私はそれを操って
弓を持って
下方(西に沈みながら)へむかって
降りてきて、

北斗七星の柄杓をとって
肉桂の漿を酌むのである。

そして
わが手綱を振り上げて高く駆け上って、

はるかな暗黒の中(地下、土中を)を
わたしは
東へと行くのである。


*わたし=東君=日の霊、日神

「我々は日の神の御子だから、
日に向かって(東を向いて)
戦うのは良くない。
廻り込んで
日を背にして(西を向いて)戦おう」

〜五瀬命



【解釈 蛯原翻訳】

『太陽が昇ると、
輝きが強いシリウスも
太陽の光によって、
その姿が見えなくなる。
しかし、やがて
太陽も西へ沈むが、
太陽は神であるゆえ、
天の中心をまもる北斗七星を盃にして、
やがて再び
天に昇るため、地下を東へ向かう』



神武天皇の東征には
いろいろな暗喩がされています。


日神(太陽、日の出、日神の子孫)は
東へ行かないと
駄目なんですが、

記紀では
神武天皇は
大和の西についた

としているんです。

これは最初に
自然の摂理
(太陽や星が東から昇り、西へ沈む)を
無視すると
戦いに勝利できないという事と、

伊弉諾の禊ぎの投稿でご紹介した
『筑紫』と『日向』の関係
なんです。


筑紫は
陸地の行きつく先、
つまり
外国との境界(西)であり、
日向は東、つまり倭国でしたね。


何故?神武天皇が
日向から瀬戸内海を東へ向かうかと言うと、

境界の西から東へ向かう事は
摂理に合わない矛盾した事
(ナガスネ彦に敗北)であり、

逆に東から西に向かう、
つまり瀬戸内海を西に向かい
筑紫や伽耶という境界を越え、
戦いをするのは摂理に従う

という解釈に通じるのです。

これは
神功皇后が
神懸かりとなり
三韓征伐をすることと重なっていたり、
壬申の乱での大海人皇子の
行軍ルートでもあります。

また、瀬戸内海における
神武天皇の東征は

斉明天皇の百済救援の行幸とは
真逆であり、

神話の中と白村江の戦いや
日本と半島の関係など、

陰陽における
自然の摂理と合わせて、

神武東征神話は
リアルな歴史の中で
重要な伏線となっているんです。


つまり、
国を治めるのは
東から。

*神武天皇の兄の五瀬命が
東へ向かう途中で亡くなるのは
西から土中を移動する
太陽や星に準えているためなんです。

因みに
五瀬命のお墓は和歌山にあり、
『竈山墓』、
竈門から
地下に入っているのかもしれませんね。



ありがとうございます

五瀬命の御陵は
竈山神社にありますが

西国三社のひとつ
であり
昨年、参拝しています
ニコニコ
 


 





『神武天皇と箒星(はばきぼし)』
〜彗星は土蜘蛛(スネは脛)



684年9月7日(天武天皇13年7月23日)
 - ハレー彗星が観測される
(日本国内では最古の記録)

11月13日(天武天皇13年10月1日) 
- 八色の姓を制定

11月26日(天武天皇13年10月14日) 
- 未曾有の大地震
(白鳳地震、推定M 8~9)が発生し、
諸国で民屋や官舎が倒潰、
津波など甚大な被害。
南海トラフ巨大地震とされる。
確認できる日本書紀による
日本最古の津波記録。

西暦684年(天武13)には、
新益京(藤原京)
「宮室之地(みやどころ)」
が決定しています。

しかし、藤原京の造営は、
西暦686年(朱鳥元)に
天武天皇が崩御したことで
一時中断されます。

天武天皇の遺志を継いだ
妻の持統天皇は

西暦690年(持統4)に
藤原京の造営を再開し、
ついに西暦694年(持統8)年、
藤原京へ遷都。

天武天皇14年(685)
神宮式年遷宮の制を制定。

古代中国では、
彗星は
必ずしも全てが不吉な存在だけでなく、
畏怖される存在でもあったのです。


彗星や流星は
出現する方位によって、

彗星は
孛星・拂星・ 茀星・掃星・
天欃・天棓・天彗などと呼ばれ、

また
流星も
天狗・天鼓・枉矢・長康等々の
呼び名があるように、

その異名の多さから見ても
当時の人々がいかに
彗星や流星を畏怖したかを推察できます。



『兼六合以開都、掩八紘而為宇』

(六合〈くにのうち〉を兼ねてもって
都を開き、
八紘〈あめのした〉をおおいて
宇〈いえ〉となす)



記紀の編纂を命じた
天武天皇は、
壬申の乱で皇位を簒奪したわけですから、
たまたま
白鳳大地震などの大きな災害があり、 
新しい都造りや、
律令制を基本とした国造りが
挫折しそうになったのでしょう。

丁度、9月にはハレー彗星が出現し、
11月に白鳳大地震が起きるわけですから、

この因果関係を
不吉な出来事と捉えるのが
自然であり、

天武政権は
屋台骨を揺るがす
大きな災害であったことは
想像できますね。

しかし、
ここでこの凶事を払拭するには、

日本書紀の
神武天皇の事績(東征)で
国の統治を表現し、
六合(りくごう)を
参宿と觜宿の水局と火局の融合とし、
天から統治を任された
天子として
『悪を善にかえる
(土蜘蛛討伐、彗星討伐)』
聖人君子と位置づけたのです。

故に
天武天皇も
吉野国栖舞(土蜘蛛)を
天皇即位に行われる
大嘗祭に
わざわざ
久米舞や
それに類する異形の民として
土着の宗教を有する隼人舞などと共に
奉納させたのだと思います。

また、白酒や黒酒を造るのは
記紀が完成した奈良時代からですが、

これは陰陽であり、

日継ぎ
(火継ぎ、日嗣)を意味し、
六角形(六合)を象徴とした
オリオンから八紘へ、
そして
天の中心の北極星へと移行する中で
参宿(海人の神聖な星)を
その伝承の中に深く沈めたのだと思います。



文、蛯原春比古さまに
帰属します
マネは一切できません!


何故?日本の建国を古くしたがるのだろう?
建国記念日ではなく、
『建国記念の日』。

紀元節は既に廃止されています。
何故?紀元節にこだわるの?
紀元前600年に
日本列島には国は存在していないんです。
まして、天皇即位は無いですよ。

これは逆に劣等感のあらわれ?

日本や日本人に生まれたことを
誇りに思うなら、
ちゃんと正しい歴史から、
日本の隅々が統一された日を選んで、
建国記念日にすれば良いのに。

世界的にみたら
紫式部だって、竹取物語だって、
平城宮だって、平安京だって、
姫路城も百舌鳥古墳群も
世界に誇れる
素晴らしい歴史と文化があるんです。

それなのに・・・



『物語を超える真実』

私は学者ではありませんが、
私の歴史に対する姿勢を
支えてくれる論評であり、
目標にしているものの一つです。
『物語(神話)』を
現代人が理解できるものとするのが
『古代の真実』に近づき、
それを少しでも多くの人に伝えるのが、
私自身の目標でもあります。

蛯原春比古



『物語』と『真実』

 「竹内文書」という
知る人ぞ知る「古文献」がある。

新興宗教天津教を開いた竹内巨麿が、

代々伝わるものと称して昭和10年に公開した文書で、漢字伝来以前に日本にあった「神代文字」だという面妖な文字がびっしり書き込まれている。
その内容は神武天皇以前にウガヤフキアエズ73代の王朝が数千万年も続いていて、そのいます場所は太古世界の中心で、モーゼ、キリスト、マホメット、釈迦、孔子といった聖人がみなそこを目指してやってきたという途方もないものであった。

天津教は
この文書の信奉者を取り込んで、
軍部にまで浸透していったが、その記事が皇国史観に反するものであるとして官憲が動き出し、竹内巨麿は不敬罪で逮捕される。

竹内巨麿自身は
最終的に無罪になったものの、

竹内文書は
狩野亨吉や橋本進吉ら国語学・古文書学の権威によって徹底的な検証が行われた結果、

近代の語彙が混じっていることなどを 
根拠に
偽作と断定された。

 かくてこの恐るべき「古文献」は
葬り去られた……かに見えたが、
実はそう簡単にはいかなかった。

学問の世界では確かにこの「文書」の真贋は決着ずみのことであり、その結論を見直そうというのは、地球は本当に丸いかどうか考え直そうというに等しいことである。
故にこれを古代史の「史料」として扱おうとする学者は一人もいない。

それにもかかわらず、
この「文書」の信者は
今に至るまで後を絶たないのである。

「竹内文書」で検索をかけてみれば、
信者のサイトは山ほど見つかる。

 富山県は
竹内巨麿の出身地で、
ウガヤフキアエズ王朝の所在地とも
されていただけに、
竹内文書の熱心な信奉者が
とりわけ多いらしい。

学界では完全に否定されていることは
彼らも無論承知しているが、
それでも
「ロマンがあっていいではないか」
というのが彼らの言い分である。

 私はここで
竹内文書そのものについて
立ち入るつもりはない。

むしろ気になるのは、 
偽物と断定されながら
「ロマンがあるから」
それを信じるという人々の心理である。

 彼らの言う「ロマン」とは 
いったい何だろうか。

恐らく
「古代日本は世界の中心であって、
世界中の聖人がそこにひれ伏した」
という「物語」のことであろう。

「古代日本はこんなにすごい国だった」という「物語」があれば、それを信じることで、その末裔である自分も偉くなったような気がしてくる。
これこそ自尊心を回復できる妙薬なのであり、麻薬のように陶酔させてくれる「ロマン」なのではあるまいか。

 そうであるならば、
その「物語」が史実であったかどうかは、
彼らにとってどうでもいいことである。
ただ「信じ」さえすれば、
それで陶酔できるのである。

そうなると
いくら学者が根拠を挙げて 
「それはウソだ」と言ったところで、
もはや聞き入れてはもらえない。

つまりここでいう「物語」とはそれを信じる人々の「心象における現実」なのであり、小説やドラマのような「フィクションと知りつつ楽しむためのお話」とは似て非なるものである。

 竹内文書ばかりではない。
現代社会では似たような「物語」は
いくらでも見つかる。

曰く「南京大虐殺はなかった」「中国は古代から残虐行為を繰り返してきた」「太平洋戦争は聖戦だった」……。

 これらの命題の真偽はどちらであろうと
この際関係ない。

己の不遇や鬱屈を国家に投影して、「強くすぐれた正しい国」の「物語」を渇望する人々は、いつの世にもどこの国にも一定数存在する。

彼らにとってはこうした「物語」を
「信じる」ことが、
自尊心回復の手段なのである。

こういう人々の前では、
学者の説く「真実」は全く無力である。
自分に都合のよい「真実」だけを信じ込み、都合の悪い「真実」は「左翼」だ「右翼」だとレッテルを貼って終わりにするか、「学者先生は頭が固い」という便利な殺し文句で切り捨てるだけである。

 日本人ばかりではない。
中国の一般大衆も「日本の文化はすべて中国の借り物」という「物語」を深い考えもなく信じているし、アメリカの退役軍人は原爆投下後の悲惨な映像をどれだけ見せようと「原爆投下は正しかった」の一点張りであることはよく知られている。
かく考えると、太平洋戦争が「聖戦」だったという考えには到底賛同はできないけれども、それを主張する遺族会の人々を頭ごなしに責め立てても仕方がないであろう。
彼らにとって身内が「敗軍の兵」となって指弾されるのは一生ついて回る苦難なのであり、最も手っ取り早い自尊心回復の特効薬は「あの戦争は正しかった」という「物語」なのである。
それを力ずくで取り上げても禁断症状に陥るだけで、そうした「麻薬」に頼らなくても自尊心を保てるような「癒し」の手段を考える方が大切である。

 古代における神話もまた「物語」であった。
現代の我々から見るといかにも荒唐無稽な話であっても、古代人は初めからそれらを「虚構」として語り伝えたわけではない。
神話はそれが史実か否かに関係なく、古代人の「心象における現実」なのであり、彼らはそれを「信じて」大切に伝えたのである。
科学のなかった時代、神話は科学に代わってこの世の成り立ちや自然現象の原理を説明するよりどころだったのであり、また政権の成り立ちとその正統性を説明するよりどころであった。
それを「信じる」ことによって、人々は恐ろしい自然の猛威に安心して立ち向かえたのであり、強盛な氏族や国の一員としての自信を持つことができたのである。
してみると現代において自尊心を得る手段として「物語」を渇望する人々は、まさに古代的な精神の持ち主であると言えよう。

 そして民衆の求める「物語」と国家の政策が
シンクロナイズした時、悲劇が起きる。

ナチスドイツの惨劇は言うに及ばず、世の宗教紛争や民族紛争と称されるものはおおむね異なる「物語」を信じる人々同士の衝突であり、ブッシュ米大統領は「世界一強く正しい民主主義の国」という「物語」に衝き動かされるまま、世界中に迷惑をばらまいている。
「物語」の持つ力はかくも恐ろしい。

 さて学者は
「真実」を探求するのが仕事である。

私のしていることも誤解されやすいが、古書を信じろと説くのではなく、古書に記された「物語」の性質や、その人々に与えた影響を探ることである。

 「物語」を信じる人々の前には「真実」も無力であるとすれば、学者のすることは全くの無駄骨なのであろうか。
決してそうではない。

コペルニクスやガリレイの説いた「真実」は、最終的には天動説という「物語」を圧倒し、人々に受け入れられた。
ダーウィンの進化論もまた然り。

「真実」は
やはり地道に
説かれ続けなければならないのである。

それはやがて人々に「物語」の持つ力への自覚を促し、「真実」を受け入れる強靭な精神を育てることであろう。
「物語」からの覚醒を一歩一歩繰り返しながら、人々は近代的精神を獲得したのである。

 とはいえ学者も人間である。
特に人文系の学問では、自らが「物語」に足をすくわれないよう細心の注意を払わなければならない。
ことに歴史の門外漢が書いた歴史の本は、いちいち書名は挙げないが、たとえ著者が大学教授の肩書きを持っていたとしても、自身が「物語」にからめ取られてしまっていることに全く無自覚であることがほとんどである。

初めに結論ありきで、その結論を何とか証明しようと都合のよい史料だけを選び、こじつけにこじつけを重ね、誤解に曲解を上塗りする、自分の本来の専門では決してやらないであろうことを平然と行っているのが、こうした本の実態である。

「物語」は学問のプロでさえ
惑わせるものであることを、
我々は心しなければならない。

 常に自らを厳しく律しながら、
「物語」を超える「真実」を
人々に提供する。
まことに
困難な道ではあるが、
それが学者の務めである。

https://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/zassi2-6.html



ありがとうございます