「りくべつ 冬」の五つの書物 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

 今回は、陸別町PRムービー「りくべつ 冬」に登場する本について言及しようと思う。西田藍さんと言えば本だ。いや要するに、もう少し語りたいのだ。

 

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 この「りくべつ 冬」で、僕が最も象徴的だと思ったのが、コテージのシーンだ。

 冒頭と、終盤少し前の二回登場する。僕はどうにも、このコテージのシーンが不思議に感じたのだ。

 西田さんは薄い部屋着でアイスを食べつつ、手帳に向かっている。髪型がこれまでとは違う感じだな、というのもあるのだけれど、何か考え込むような表情から、ふっと笑みをもらし、ペンをとって手帳に書きつける、というのは、完全にものを書いている人の姿だったからだ。窓の外では雪が降り積もり、ゆるキャラたちが雪遊びをしている。それを温かく見やって、西田さんはペンを走らせる。

 北海道には数回しか行ったことはないが、どこでも過剰なほど暖房を効かせて薄着でいる、というのが当たり前のスタイルらしいので、そこは違和感を感じるところではないのかもしれない。実際、西田さんはBBQのシーンでも(上は羽織っているが)この薄着で過ごされている。

 だが、このコテージのシーンはどことも繋がっていないのだ。

 実際、映像の中で時系列を追ってゆくと、西田さんの足跡の中にはコテージ内でのシーンを入れ込めない。つまり、これは現実の出来事ではなく、西田さんの心象風景だからだ。実際、このコテージの中には誰も出てこない。他のシーンでは陸別町の様々な人々と触れ合っているのに。※1

 その意義について、僕の思うところを書こう。

 

 前作の「りくべつ 夏」では、西田さんの本を読むシーンが三回あり、三冊の本を読まれている。これはまあ、文学アイドル西田藍ならでは、だろう。特に必然性があるわけではないが、「陸別を訪れた西田藍」という表現だ。

 今作の「りくべつ 冬」では読むシーンは二回。しばれフェスティバルの氷のハウスの中で寝転がって、フィリップ・K・ディック『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』(ハヤカワ文庫SF)を、ふれあいの湯で湯上りに金井美恵子『愛の生活 森のメリュジーヌ』を読んでいる。

 ただ、本自体は他にも出てきて、コテージのシーンでテーブルに積んであるのが以下の三冊の文庫だ。

 

金井美恵子                    『愛の生活 森のメリュジーヌ』(講談社文芸文庫)

トルーマン・カポーティ  『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)

ジャック・ロンドン        『白い牙』(光文社古典新訳文庫)

 

 あれ、パーマー・エルドリッジは? というのはあるが、ちょっと脇に置く。

 それ以外で出てくるのは、ローカルな文芸誌を発行しているらしい、あかえぞ文藝舎で紹介される高田郁『あい-永遠に在り-』(角川春樹事務所)。陸別開拓の祖である関寛斎を、妻のあいの視点から描いた小説だ。

 

 これらの本と、「りくべつ 冬」の関連性について考察してみたい。

 まずは、金井美恵子『愛の生活 森のメリュジーヌ』だ。先日のブログでもちょっと書いたけれど、この短編集と西田さんのナレーションは意外だった。町に向かう車の中で、西田さんのモノローグが流れる。

 

冬のりくべつについて書きたい、と思った。

りくべつ ならではの、何かが書けそうな気がした。

 

 西田さんはこれまで多くの場合「読む人」だったのだが、この「りくべつ 冬」の中では、どうも「書く人」の位置づけであるらしい。コテージのシーンで、手帳に何事か書きつけるところなどは象徴的だし、ついには(おそらく西田さんが書いたと思われる)詩の朗読まである。

 『愛の生活 森のメリュジーヌ』は、金井美恵子が「書くということ」について繰り返し考えた末の作品だ。デビュー作の「愛の生活」はもちろん、同様のテーマで後年になって書いた「夢の時間」、「森のメリュジーヌ」を同時に収録しているのが特徴的で、金井自身が尊敬するフローベルになぞらえて、何度でも同じテーマについて書く意義を語っている。

 さらに、「兎」の冒頭はこうだ。

 

書くということは、書かないことも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。

 

 とにかく、「書くということ」について繰り返し語られているのだ。金井美恵子の小説がすべてそうだというわけではなくて、そのテーマに沿って編まれた短編集だ。

 「書く人」として描かれた西田さんが、この短編集を読んでいるのは、あまりに符丁が合う。だからコテージのシーンでこの本が一番上に積まれているのは、「書く人」としての西田さんを示しているようにも思えた。

 

 次はコテージで上から二番目に積まれた本。カポーティ『ティファニーで朝食を』。西田さんのフェイバリットだ。※2

 この本のラストで、華やかで自由奔放なヒロイン、ホリーは消息がわからなくなる。海外から手紙が届いたけれど、もうそこにはいないだろう、というような事が語られる。

 ホリーの住所はいつも「旅行中」。新人女優。で、マネージャーがオーディションの話を持ってはくるが乗り気ではなく、パーティーガールとして派手に暮らし、ちょっと浮世離れしていて、あんまり思慮深くなくて、迂闊なことをしてトラブルに巻き込まれる。そのトラブルのせいで、最後には姿を消してしまうのだ。※3

 西田さんをホリーに重ねようとは思わない。そもそもあんまり似ていない。

 だが、『ティファニーで朝食を』のその後の話として、世界中を放浪しているだろうホリーのように、ふらりと陸別を訪れた、というはどうだろう。西田さんが、そんな風にイメージしていたのだとしたら面白い気がする。ホリーは自分の居場所を探す、なんてことはしない。その時その時で、その場所を面白おかしく楽しんで、またどこか次のところに向かうのだろう。

 陸別に来て、旧交を温め、祭りを楽しみ、町の人びとと触れ合い、また次の人生へ、というのは、ホリーの生き方に重ならなくもない。

 それならば、こういう解釈も案外ありじゃないかなあ、という気がする。そもそも、ホリーはニューヨークにも、ふらりとやってきたのだろうし。

 

 さて、コテージで積まれた本の一番下は、ジャック・ロンドン『白い牙』。

 『ホワイトファング』のタイトルで映画化もされている有名作品で、僕も小学生の頃にジュブナイル版みたいなのを読んだ記憶があるが、原作は未読だったので、この機会にちょっと大急ぎで読んでみた。そんなに雑に読むような本ではないので、そこは申し訳ないけれど。※4

 狼を父に、狼と犬のハーフを母に生まれた(つまり1/4が犬)ホワイトファングが、過酷な極寒の地で生き抜き、人間に拾われるも血のせいで犬たちから苛烈ないじめにあい、それを力で屈服させたかと思うと、今度はその攻撃性を買われて闘犬にさせられ、次々と勝利を重ねるもついに強敵によって瀕死の重傷を負ってしまう。だが、そこに新たな人間が現れてホワイトファングを引き取り、ついに人の温かさを知り……という話だ。

 吹きすさぶ雪と氷の荒野という舞台を、陸別に重ねたのだろうか、というのが最初の印象だった。

 ただ、この作品、「孤児が様々な迫害に合い、すさんだ凶暴な人間に成長するが、もはやこれまでとなったときに人の温かさに触れ、人間らしさを獲得してゆく」というフォーマットを狼犬に託したものだった。

 白人とインディアン、犬と狼、という対立構造というか、マジョリティとマイノリティとかの見方が出来て興味深い。まあ、犬には人間への信頼が根底にあり、ホワイトファングの犬の血がそれを呼び起こす、というのはどうかと思ったが、そこらへんは時代というのもあるだろう。

 そのホワイトファングが、ふとしたきっかけで優しい人々に受け入れられ、戸惑いつつも安寧を得てゆく、という最終章の流れを読んだ時、ああ、この「人の温かさ」というのは、「りくべつ 冬」としては、陸別町の人々に重ねるべきなんだろうなあ、という気がした。とでもベタな見方ではあるけれど。

 ただ、前半のあまりに厳しい極寒の地の描写と、後半(というか最後の)温かい家族の対比が、「日本一寒い街、でも温かい人々」というこの動画の趣旨としっくりくる。

 

 こうして解釈してみると、この三冊はそれぞれ象徴しているものがあると解釈できる。

 

『愛の生活 森のメリュジーヌ』  書く人

『ティファニーで朝食を』             訪れる人

『白い牙』                                      迎え入れる人々

 

 これらは全て「りくべつ 冬」の中に描かれているものだ。

 そしておそらく、これは陸別町を訪れる前までに思い描かれていたもとの言えるだろう。

 

 では、西田さんがあかえぞ文藝舎で紹介された、『あい 永遠に在り』はどうだろうか。

 齢七十にして北海道に渡り、陸別開拓の祖として極寒の生活を生き抜き、医師として人々のために尽力した関寛斎と、そんな夫に常に寄り添い、支え続けた妻のあい。この二人の物語だ。

 これはもう、間違いなく「そこに暮らす人々」を表したものだ。だからこれはコテージでは出てこない。なぜなら、その地を訪れた西田さんが、そこで出会ったものだからだ。

 

 では、氷の家の中で読んでいた『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』は?

 この本について簡単に説明するのは難しい。西田さんなら「ディックなんてみんな同じテーマですよ」と言われるかもしれないが。『ユービック』や『去年を待ちながら』や『暗闇のスキャナー』と、この作品がどう違うのかと言われると、違わないんだが同じでもない。そもそも、説明しやすいディック作品などないけれど。

 ディックらしく、現実とドラッグによる非現実・幻覚の区別が曖昧で、虚実が入り混じって確かなものがわからない、という話だ。

 火星で過酷な労働に耐える人々が現実逃避に使っているドラッグ、キャンD。そこに星間実業家パーマー・エルドリッジが持ち込んだ新型のドラッグ、チューZ。チューZにビジネスを脅かされたキャンD業のレオが彼を陥れようとするが……みたいな話。

 キャンDもチューZも現実から抜け出すドラッグだけど、僕はキャンDの方が好きかな。キャンDは人形とミニチュアハウスがセットになっていて、キャンDをキメると人形に乗り移ってミニチュアハウスで遊べるという、比較的わかりやすいもの。男はウォルト人形、女はパーキー・パット人形になる。他人の意識と融合して同じ人形に入ったりするから、そうするとちょっと複雑だけれど。そんなもの関係なく、何処へでも勝手にトリップするのがチューZだ。

 さて、ではコテージはミニチュアハウスで、西田さんはパーキー・パット人形としてそこにいる、というのはどうだろうか。※5

 いやそれではウォルト人形がいない。いやいなくてもいいが、ちょっと待て。そういえば人形のようなものが二人いる。しばれくんとつららちゃんだ。キャンDを飲んだ西田さんは、パーキー・パット人形ならぬつららちゃんに融合したのである。その証拠に、しばれフェスティバルを歩く西田さんは、つららちゃんの黄色いコートを着て、赤いマフラーをしているではないか。このマフラーは、そのもっと前、雪原で行き倒れて二人に助けられた後、馬に乗って進むシーンでも西田さんの首に巻かれている。このシーンもまだ現実ではない。現実は、その後の車に乗るシーンからだ。

 現実に戻り、西田さんは薄紫のコートを着て陸別を後にする。

 そういえば、現実ではないはずの雪原のシーンでも同じ格好をしていたな。では、つららちゃんの中に入っている時だけが非現実ではないのか?

 『パーマー・エルドリッジの三つの聖痕』には、こんなシーンがある。チューZの幻覚から逃れて、ようやくニューヨークの事務所に帰ってきたら、デスクの下に緑色の目をした怪物がうずくまっている。覚めたと思ったら、そこはまだ幻覚の中だったのだ。

 さて、東京に戻った西田さんは、机の下を確認されただろうか? もちろん、こうしてキーボードを叩いている僕自身が現実の中にいるのか、「りくべつ 冬」なんて動画が本当に存在しているのか、誰も保証してはくれないのだけれど。

 

 

 

 

 

※1 ふれあいの湯での入浴シーンと、しばれフェスティバルの氷のハウスの中では一人だが、それはまあ、仕方がないだろう。

 

※2 この本のイメージでオリジナルのブックカバーを作られているほど。 『こだわりのブックカバーとしおりの本』(玄光社) だた、西田さんの読んだのはは村上春樹訳で、僕はそのずっと前の龍口直太郎訳なので、そのあたりのイメージがうまく共有できていない。昔のカバーはヘップバーンだったからなあ。

 

※3 これは小説版のラスト。オードリー・ヘップバーンの映画はちょっと違う。確か、西田さんは映画の方はご覧になっていないんじゃなかったかな。僕はどっちも好きだけど、あれは別物だ。

 

※4 そういえば、ジャック・ロンドンは村上春樹が小説の中で言及したこともある作家だ。まあ、カポーティとかヴォネガットとかフィッツジェラルドとかカーヴァーとかサリンジャーとか、すごくたくさんの作家に言及しているのではあるが。

 

※5 西田さんはドラッグなどには手を出されまい。が、ディックはバービー人形からパーキー・パット人形の着想を得たらしいし、西田さんはバービー人形を主役にしたクレイジーなアニメ『バービー』が大変お好きなので、もしかするとパーキー・パット人形になる発想を喜んでくれない、かなあ。