STUDIO VOICE vol.49『恐るべき少女礼賛』追記 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

 ちょっと書き足りないので、蛇にたっぷりと足を付け加えようと思う。


 


 この記事で西田藍さんは、モラトリアムとしての少女、というものをアイドルと結びつけて語っておられるけれど、渡部周子の『〈少女〉像の誕生』では、少女は家父長主義に基づいて「愛情深く」だが「純潔」であることが求められた、というようなことが書いてある。


 献身的であるとともに、貞節であるべきとされた、というのだ。


 西田さんは書かれていないが、これが現代のアイドル像と重なるのはいうまでもない。少女を「愛の客体」とすることだ。アイドルの愛情は豊かだが特定の誰かに注がれることはなく、誰のものでも無く誰かに触れさせることもない、というもの。


 僕はアイドルのこういうところが苦手だ。


 アイドルは、アイドル自身のものですらない。※1


 


 そんなことはない、という反論もたくさんあるだろうけれど、アイドル自身がそういうイメージをセールスポイントとしてきたことは事実だと思う。むしろ、それならばそれで良いのだ。問題は、本来は送り手であるはずのアイドルが客体のイメージを持つが故に、受け手であるはずのファンが主体であるかのように錯覚することだと思う。


 


 西田さんも記事で触れられている姫乃たまさんの『潜行』とか『職業としての地下アイドル』には、「アイドルなんだからこうするべきだよ」と何故か上から指示してくるファン(?)の話が出てくる。文月悠光さんのエッセイにも同じような話があった。西田さんも、DVD発売の頃にあれこれと言われているし、それ以後もたまにTwitterで絡まれたりしている。


 本来なら、アイドルを自分の気にいるようにしたい、というのは本末転倒であって、その人となりが気に入ったからファンになるはずなのだ。だからアドバイスなど、角を矯めて牛を殺すようなものだ。


 西田さんは、まあなかなか難しい人ではあるのだけれど、そうでなければ僕は惹かれなかっただろうし、そのナイーブさも大事な要素ではあるだろう。


 


 ちょっと話が逸れたが、アイドルを客体として見るのは男性中心の価値観がベースにあるからだろう。西田さんは、


 


私はアイドルのファンだ。女性アイドル好きの女オタク(嗚呼、男オタクという言葉はめったに使われない!)だ。


 


 と書かれているが、モラトリアムとしての少女の成り立ちから見て、女性からの視線は前提とされていないようなものだろう。


 そもそも、女性アイドルとはいうものの、アイドルといえば基本的に女性だ男性アイドルを単にアイドルと呼ぶことは少ないように思う。西田さんも〈アイドル〉は女性としてしか語られていない。※2


 


 実際、今となっては、澁澤だか大塚英志だかの少女論でアイドルを語ること自体、もう時代遅れだと思う。そこには異性愛セクシュアリティの枠組みでないものがあるはずで、西田さんのような「女性の女性アイドルファン」が見ているものがあるんじゃないかと思っている。


 これは西田さんお得意の「制服」についても言えることだ。


 残念ながら、僕は「アイドル」にも「制服」にも、さして思い入れが持てないでいるので、その先にはたどり着けそうにない。


 すぐにとは言わない。西田さんがそこに論を積み重ねてゆくのを見届けられたら。そう思うだけで、胸が踊るというものだ。


 


 


 


 


 


※1 ただ、そういうイメージを、アイドル自身が発信するなら良いのだ。客体であることを主張する、というのも二重規範っぽくはあるのだが


 


※2 男性アイドルは単に女性アイドルの性別を変えただけのものじゃなくて、同列には語れないように思う。稲垣足穂みたいなイメージの男性アイドルなんていないだろうし。