STUDIO VOICE vol.49『恐るべき少女礼讃』3 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

 さて、今回いよいよ中身に触れていこうと思う。
 あらためて言うまでもないとは思うけれど、もちろん内容も十分満足できるものだ。僕は文体ばかり二回にもわたってあれこれ言ってきたけれど。ここは満を持して、ということにさせてほしい。

 これは西田藍さんの思想が随所に現れた逸文。僕は、西田さんの書かれたものの中で、現時点でトップ3に入る本当にいい文章だと思っている。

 西田書評研究家としては、気に入った文章はいつも全文引用したくてなる。今回もそうだ。もちろん、そんなことできはしない。だから、各パラグラフごとに要旨をまとめてみた。あまりに短いのは引用させてもらった。
 パラグラフは全部で18。最も短いのは1行だけれど、長いのは23行もある。短いのは短いなりに、長いのは長いなりにまとめてみた。



パラグラフ1
 アイドルブームの中で、一番の隆盛をきわめるのは、歌って踊る無印の<アイドル>。10代から20代後半までの「女の子」である。

パラグラフ2
 国民的アイドルと呼ばれたモーニング娘。は、もともとボーカリストオーディションの落選組である。「アイドル」を目指していなかった彼女らが、部活系アイドルとして育てられた。卒業と加入を繰り返し、グループは存続するも、今では国民的アイドルとは言えない。

パラグラフ3
 モーニング娘。をはじめとするハロー!プロジェクトのアイドルのファンだった少女のひとりが、指原莉乃である。誰からも愛される“清純派美少女”とはいかなかった彼女が、今や10年代を代表するAKBグループの現役アイドルであり、国民的バラエティアイドルでもある、無印の<アイドル>だ。


パラグラフ4
 女性芸能人の一型としての<アイドル>は、ここ数十年変わらない。
 しかし、AKBグループのビジネスモデルが注目を浴びると、知識人、若手評論家(なぜか男性ばかり)は、以降の<アイドル>をを新しいカルチャーとして評価した。

パラグラフ5
 AKBの戦略と言われ、指原莉乃自身が「AKBには入れるけれど、モーニング娘。には入れないレベル」と語るのは、「誰でもなれる<アイドル>」。指原を頂点とするそれは、なろうと思えば明日にもなれる。地下アイドルもそれだ。


 ここまでは現状分析というか、アイドルというものを定義するための展開だろう。
 ここで定義された<アイドル>というのは、指原莉乃をピラミッドの頂点とする、「歌って踊る無印の」「誰にでもなれる」アイドルのことだろう。現在、共有されている概念というべきか。
 パラグラフ2で出てくる「アイドル」は、初期のモーニング娘。のメンバーがイメージしたもので、この<アイドル>とは少し異なる。自分とは関わりがないと認識されていたものだからだ。

パラグラフ6
 なぜ、今こんなにも<アイドル>なのか。若い女性が自己表現するのに手っ取り早いのが<アイドル>であり、西田自身、アイドルという肩書きを便利に使っている。何者でもない女には、これほど便利な肩書きはない。

パラグラフ7(引用)
 アイドルは肩書きだが、職業ではない。

パラグラフ8(引用)
 いや、アイドルはアイドル業をする労働者である。しかし、生業とはなりえない。

パラグラフ9
 アイドルは職業ではなく、状態である。他の女性芸能人のジャンルと違い、死ぬまで続けることは出来ない。近代以降の概念である「出産可能でありがなら結婚を猶予された存在」である「少女」と同様、アイドルは「妻・恋人」「娘」「子供」「労働者」のどれでもない、モラトリアムである。
 <アイドル>はファンとアイドルの共犯関係の中で育った概念ではあるが、あまりに見る側のイメージに引っ張られているのではないか。


 少女をモラトリアムとする概念は、近代以降に確立されたものだそうだ。僕はこれについて、西田さんの紹介された本で知った。これについては、後述する。
 モラトリアムというのはそんなにネガティブなものではない、と思う。特に女性の場合は、誰かに保護あるいは所有されない状態、というのが近世以前では成立しづらかったはずだし。でも、ここでは「誰かのものではないが、自立もしていない」という意味だろう。これが後段の二重規範に繋がっていくわけだ。

 見る側の意識に引っ張られている、というのは、ちょっと考えさせられる。本来なら表現者であるアイドル自身が主体であるはずなのに、見る側であるファンのイメージを主として概念が形成されているということだろう。女性が、アイドルらしいものを自ら表現したい、と思うこと自体を否定しようとは思わないし、芸能というものが観衆に求められるものを供する、というのはわかるので、アイドルのイメージがファンの求めに応じる、というのもわかる。

 しかし、あまりに外から求められるイメージの影響が強い気がする。西田さんの指摘はその非対称性についてだろう。

 さて、ここからが西田さんの論の核心だ。文章は一気に加速する。

パラグラフ10
 アイドル蔑視ではなく、西田はアイドルファンとして、その労働が軽視されていることに憤っているのだ。確かに、姫乃たまの著作にある通り、地下アイドルたちは比較的、自己表現のためのアイドル活動であり、昨今のアイドル・ブームは追い風になっているかもしれない。

パラグラフ11(引用)
 しかし。問題は地下ではない。地上である。
 この、アイドルをモラトリアムとして扱う風潮の中で――

パラグラフ12
 少女を偶像化して歌い踊らせるアイドルは、無条件に素晴らしいと言えるのか? 西田は魅力的だと思うし、エンパワメントだとすら言える。しかし。


パラグラフ13(引用)
 児童労働は芸能に限り許されている。
 健康及び福祉に有害ではなく労働が軽易ならば。


パラグラフ14
 児童ですら大人と同じように表現できるのが芸能の世界だ。だが、モラトリアムな<少女>でなければ<アイドル>になれないならば、アイドルを礼讃することは、それを労働とみなさないことになるのではないか。<少女>を礼讃することは、同時にアイドルを成人の職業とは違うものとする、二重規範ではないのか。<アイドル>を芸能の一ジャンルとして以上に礼讃することは、児童労働させながら児童動労ではないとすることではないのか。
 その二重規範をうまく利用し、何者でもないが<アイドル>であることは、自由であり不自由である。その輝きは美しい。だが、<アイドル>でない者からの礼讃は、その二重規範の礼讃ではないのか?

 意地の悪い見方をすれば、誰のものでもなく、また自立してもいない、というのは、愛でる側として都合がいい。
 ただ、多くの芸術において、この不安定な境界に位置する「少女」というものが礼讃されてきたのは事実だ。澁澤龍彦に言わせれば、少女は人形のような客体であればこそ魅力的らしい。ここでのモラトリアムとしての位置づけも、根っこは同じなような気がする。
 しかし、完全な客体ならば自己表現などするはずもない。
 アイドル活動は自己表現なのか? しかしモラトリアムである<少女>の属性が<アイドル>に必須であるならば、そこに矛盾が生じてしまうのではないか。いや、もちろんモラトリアムにも自己表現はできる。ただそこに、あまりにも受け手の「こうあってほしい」という願望が投影されている気はする。
 西田さんはかつて、サイゾーに連載されていた『制服偏愛論』の中で、ブルセラブームの時に女子高生に抱く「幻想」についての言及をされていたが、それがもう少し明確化されているように思う。あれがここに繋がったか、という気がする。
 ここでいう<少女>の概念と、制服のイメージは割と近しいのではないだろうか。

パラグラフ15
 彼女らは、少しずつ<少女>を抜けだしはじめている。それをしたたかさと呼ぶのは、強者の傲慢だ。

パラグラフ16(引用)
 少女の他者性に、甘えていないか?


 先ほども触れた『制服偏愛論』の最終回で西田さんは、学校制服は大人たちから押しつけられたものだったが、いつしか女子学生たちはそれを自ら選びとり、自分たちのものとし、楽しむものとしてきた、ということを書いている。
 この部分、完全にこのパラグラフ15と重なるじゃないか!

 ここで、これを書かれた時期に、西田さんが他にどんな文章を書いたか、をチェックしてみた。STUDIOVOICE vol.409は2016年10月19日発売だ。ここより少し前の、西田さんの文章から以下をピックアップする。

① 2016年10月6日 週刊新潮2016年10月13日号 掲載
『文化の消費者として求められた「女性」たち』

② 2016年9月2日 ホンシェルジュ
『ブルマーを語ることは「抑圧と解放のパラドックス」を語ることだ』

 まず①の週刊新潮の書評。『夢みる教養』小平麻衣子(河出書房新社)の紹介だが、本書の中でで太宰の『女生徒』が紹介されている。これは実在の女性の日記に太宰が手を加えたものだが、この本ではそれを原文と対比させている。西田さんの言葉を借りると、このようなものだ。

細部を見ると、大人の女への嫌悪感が付け足され、社会批判は差し引かれている。『女生徒』は、少女ではあるが、〈女性ではないもの〉として描かれている、と著者は指摘する。誰も脅かさない存在だからこそ、ここまで幅広く愛されているのだろう。

 ここでは『女生徒』の他者性が指摘されている。この『女生徒』のイメージは、<少女>と似たようなものだろう。太宰が『女生徒』で隠しきれなかったような女性嫌悪について、西田さんは〈アイドル〉の概念の中で書かれていない。が、少女を他者とすることにおいて、そういう意識があったとしてもおかしくないように思う。


 次に②のホンシェルジュである。テーマそのものはタイトル通りブルマーに関することなのだが、参考文献的に挙げられている本に着目したい。

『〈少女〉像の誕生―近代日本における「少女」規範の形成』渡部周子(新泉社)

 この本、タイトルから既に<少女>と「少女」の使い分けが為されている。ちなみに西田さんが文中で使われている「出産可能でありながら結婚を猶予された存在」というのは本書に出てくる表現だ。本書では、その定義によって改めて規定された概念を<少女>として表現している。そういう山括弧の使い方は、この文章と同じだ。

 既に、サイゾーの連載時に萌芽はあった。『制服偏愛論』の最終回が、2014年10月号。繰り返すが、このSTUDIO VOICE vol.409が2016年10月。
 この間の二年で、西田さんの思想は様々なものを吸収して成長していったのだろう。ここにそれが美しく現れている。
 そう思った時、ふと思い出した。
 そういえば、今年2017年の11月から、西田さんのコラムの連載が始まっている。そう、眼鏡Beginだ。その中で、西田さんはアイドルと眼鏡、について書いてゆくとしている。その第一回の連載では、文学少女というイメージから、眼鏡を掛けることを求められたことが述べられていた。

 眼鏡は、もちろん記号だ。
 記号と、受け手のイメージの投影、そしてアイドル……。

 僕の中の冷静な部分が、拙速な予断はすべきではないぞ、と言う。しかし、別の一部が期待してしまうのを止められない。これから、最新版の西田イズムが語られるのかもしれない。さらにブラッシュアップされた形で。それをリアルタイムで体験できるとしたら……?
 眼鏡Beginは半年に一度の刊行らしく、次号は来年5月。その次はまた11月だろう。待ち遠しいが、待てなくはない。なんと言っても、やはりもう少し字数が必要だ。
 鬼がいたら腹の皮がよじれるまで笑うがいい。僕の来年の末の楽しみが出来た。
 もちろん、そこまでの西田さんの活動は、出来るだけ追いかけてゆくつもりだ。後から「ああ、これはあの時のあれかあ!」とやるためだ。きっと最高に楽しいはずだ。


 どんどん未来に欲が出る。もういい歳なのにな。

 やれやれ、人生というのは、なかなかカッコ良く悟りきれないものらしい。有難いことに。