STUDIO VOICE vol.49『恐るべき少女礼賛』2 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

STUDIO VOICE vol.49

 Les Enfants Terribles 恐るべき少女礼賛

 

 前回、新たな発見に喜ぶあまり、夢中で書いていたら、ものすごくとりとめのない文章になってしまった。反省。今回は、冷静に書こう。

 前回「大事なキーワードがある」としたパラグラフについて、西田藍さんがどうやって主張に厚みを持たせているかを知るべく、その構造を詳しく見てみたい。

 思うのだが、文章の強さは文末に現れる。「……だ」と「……と思う」では明らかに違うし、「……だ」「……である」「……です」は使い方が違う。

 あとは接続詞だ。とくに逆説の接続詞は、その前の文末と関わり合って効果を増すものだ。

 そこで、西田さんが〈少女〉について述べたこのパラグラフの、文章の強弱を見るために、接続詞と文末の一文節だけ取り出してみた。

 

……ということだ。

……できる。

しかし、……そうではない。

……ではないのだ。

……の女性達。

……である。

……である。

……とはされない女。

……他者だ。

……でもない。

〈少女〉だ。

……女の子なのだ。

……「やれる」。

……で育ってきた。

しかしやはり、……と思う。

……として認識されている。

夢見る世界。

 

 文末を抜き出してみたら、文章構造がわかりやすくなった。このパラグラフで西田さんは、言葉を重ねて強調している。あらためて、ここで書こうとすることを、とても大事だと考えられている、と判断できる。

 女性達、女、女の子という様々な表記で、多面的に表そうとしているのが〈少女〉という概念だろう。このあたり、澁澤龍彦というか、ホンシェルジュとか週刊新潮で同時期に紹介された本の影響が見て取れるんだけれど、今はそういう内容に関するところは言及しないでおこうと思う。

 まあ、僕はお楽しみは後にとっておく方だ。

 

 さて、ここまで折り目正しい文章が、突然、熱を帯びる。

 次のパラグラフの冒頭だ。

 

これはアイドル蔑視ではない。私はアイドルのファンだ。女性アイドル好きの女オタク(嗚呼、男オタクという言葉は滅多に使われない!)だ。だからこそ、〈アイドル〉の仕事、いや、労働軽視さに憤っているのだ。

 

 いやあ、素晴らしい。ここは本当に西田さんらしい。

 西田さんはここで、姫乃たまさんの著作に触れられる。僕も姫乃さんの文章は好きだけど、その雰囲気は西田さんと真逆だ。姫乃さんは、淡々とした、非常にフラットな文章を書かれる。

 僕は作者というのは書きたいことを十分に書けることはなくて、行間から滲み出る、書きたくても書けない心情が、文章の魅力だと思っている。だから、ここで急に衝動がほとばしる西田さんの文章に魅力を感じるのだ。これは、最初から感情がダダ漏れでないからまたいいのだ。

 しかし、姫乃さんの文章にはそれがない。まるで裏がないかのような、透明な文章を書かれる。ここではあまり詳しく書かないけれど、感情が堰を切った文章の直後に、西田さんが姫乃さんの文章に言及されるのが、なんというか、とても面白い。

 

 さて、ここまでしっかりお膳立てしたわけだから、もちろん文章は一気に西田さんのアイドル論の核心に及ぶのだけれど、やっぱり中身には触れないで、文章の構造だけ見よう。

 

 この次のパラグラフ12は三行しかない。だが、四文で二段落もある。

 その次のパラグラフ13は、五行。五文。

 さらにその次の14は、二行、二文、二段落。

 そこまで短いパラグラフの後に、この記事中、最大のパラグラフ15が来る。二十三行。二段落あるが、二つ目の段落は最後の二行だ。二十一行は、最大の段落でもある。

 あれ、この構造。

 細かく区切った短いセンテンスが続き、最後にどっと長い文章が来る。これはあれだ。僕の持論「西田さんが言いたいことを書く時は、前半に読点が多く、後半は少なめの文章になる」というヤツと同じ構造ではないか?

 今回の記事は、西田さんの文章の中でも長めの方だ。だから、文章と句読点でなく、段落とパラグラフで同じような構造が成立するのだろう。

 よく見てみると、最大のパラグラフ15の中も、前半は短文、もしくは読点多めなのに対して、後半にいくに従って文章が長くなっている。ここにも、同じ構造が見て取れる。以下にその中の一部を引用しよう。

 

アイドルにならない、なり得ない者が、責任を負わない者が。地上で、マスで、マクロで。芸能ジャンルとして評価する以上の礼賛が聞こえてはこないだろうか?

 

 ここは一文ではないが、完全に同じ構造。そして、ここの次の文は

 

実際、〈少女〉たちは、浴びせられる二重規範をうまく利用しているように見える。

 

 というもの。前半と後半で読点の配分がある。

 つまりここは、その特徴的な構造が単文で、複数の文で、段落で、パラグラフで入れ子構造になっているのだ。ミクロとマクロで同じ構造という、まるでフラクタル図形のようだ。

 正直なところ、西田さんがどこまで意図されたのかわからない。文章構造において、そこまでテクニカルなことをされる人ではないように思うからだ。僕は西田さんの文章の特徴は、おそらく文章を読み上げる時の癖のようなものではないかと思っていて、頭の中で文章が流れる時の抑揚みたいなのが文章に現れたものではないかと予想している。

 であれば、ミクロで積み上げていったものが、いつのまにかマクロで同じ構造になっていることも、あり得ないことではないんじゃないだろうか。

 ということは、この文章構造は西田さんの思考のマッピングだということになる、というのは妄想が過ぎるだろうか。

 

 なんとなく、素肌を覗き見たような後ろめたさがあるし、自分でも気持ち悪いとは思うけれど、この西田さんの(少なくともこの記事を書いた時の)思考、その熱を帯びた端正さが、たまらなくセクシーだと思う。

 いや、本当に、いい文章を読んだなあ。

 これだから、もうだいぶ読んだのに、まだこういうのに、出会ったりするから、僕は西田さんの文章を追いかけてしまうのだ。

 

 この記事は、僕のフェイバリットのひとつに加えておこう。

 さて、次はいよいよ本題。この記事の内容について書いていこうと思う。