STUDIO VOICE vol.49『恐るべき少女礼賛』1 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

STUDIO VOICE vol.49

 Les Enfants Terribles 恐るべき少女礼賛


 STUDIO VOICE vol.49(2016年10月刊行)に、西田藍さんのコラムが載っている。ちょっと入手に失敗してチェックできないでいたんだけよね。
 僕は基本的に、出来るだけ掲載誌を手に入れたいと思ってるんだけど、これはなかなか手に入れられなかったので、業を煮やして
国会図書館に行って読んできた。まあ、他にも色々とあったので。
 しかし、ハイセンスな雑誌だ。思わずどっちが表紙か裏表紙かわからなかったぐらい。
 写真とか段の切り方とか、いちいち凝っている。ああ、苦手な世界だ。コンプレックスを刺激されるのか、なかなか西田さんの記事が探せない。

 そもそも雑誌の目次はだいたい見つけにくいものだけど、こいつは輪をかけてわかりにくかった。何しろ目次がわざわざ英語で書かれている。何故? 最初から洋雑誌のつもりで読めば、逆に違和感なかったかもしれない。

 で、肝心の西田さんの記事をみて、もう一度驚いた。なんと写真一枚なく、それどころか黒一色のページに白い字でびっしり書かれている。※1
 これは、なかなかないぞ。
 若干警戒しながら読みはじめる。
 

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 迂闊だった。これを見過ごしていたとはね!
 ああ、なんてこった。これを読んでからガルむすに行き、西田さんにあれこれ聞いてみたかった。だがガルむすはもう閉店してしまった。

 まあ、悔やんでも仕方ない。
 この文章にしっかり向き合おう。
 
 西田さんのアイドル論だ。
 アイドルの肩書きを利用している、ということは、西田さんが再三言われていることではある。では、その「利用する」というのはどういうものか。また、これがどんな構造の上に成立しているものか。このコラムは、そこを丁寧に分析している。冷静な文章。感情的な表現はほとんどない。だけど、裏に社会の一部に向けられた怒りを潜ませている。そして行間から滲み出るアイドル達に対する愛情。
 ちょっと待て。これは、西田さんがアイドルについて書かれたいくつかの文章とは似てもつかないぞ。いや、それどころか、他の色々なところで書かれた文章とも、一線を画する。強いて言えば、ホンシェルジュの抑制を利かせた文章だろうけれど、あの文章はこれに比べると窮屈だ。書くべきところを書こうと、限られた字数に押し込めているのを感じる。
 僕が何度も好きだと書いているユリイカの文体は、しっとりとしたエモーショナルなものだ。でもこの文章には硬質なものを感じる。折り目正しい文章から、中の感情が透けて見えるような。
 ユリイカが上質な布で包まれた想いだとすると、ガラス細工の箱に納めた想い、といったところか。
 こんな文章も書かれていたのか。
 これが西田さんの文章だということはわかるのに、今まで見たことないような文体。まるで、髪型とメイクをがらりと変えたかのような感じといったところかな。
 まあ、つまらぬ例えより、引用をしよう。
 
しかし、現在、いちばん隆盛を極めているのは、無印の〈アイドル〉。そう、歌って踊る、アイドル。そのアイドルを務めるのは、主に10代、20代の女性たちだ。小学生から20代後半の女性まで、彼女らはまとめて「女の子」と呼称されることもある。
 
 僕の持論である、「西田さんが言いたいことを書く時は、前半に読点が多く、後半は少なめの文章になる」というパターンにあてはまる。

 これは冒頭の段落なので、ここで方向性を明確にした、ということだろう。
 注目したいのは、アイドル〈アイドル〉という書き分けがなされていること。そして、女性「女の子」だ。実は文中、「アイドル」という表記もある。括弧なし、鉤括弧付き、山括弧付き、でどう違うのか。
 もうひとつ、女性女の子「女の子」女児「少女」〈少女〉という様々な表現が混在している。
 僕はこういう末節にこだわる傾向があるのは自分でもわかっている。そかし、西田さんが、なんの考えもなく表記を変えるとは思わない。そういうことをされる人ではない。少なくとも、同じ文章の中では、使い分けがなされているはずだ。タイトルと冒頭が示す通り、これはアイドルと少女について書かれた文章である。ならば、ここを掘り下げないわけにはいくまい。
 
 ただ、内容に言及する前に、文体を眺めてみよう。そうなんだ。僕は文章に関しては割と見た目重視のタイプなんだよね。この文章、各パラグラフの内容がまとまっていて、シンプルでわかりやすい。

過去、国民的アイドルと呼ばれていたモーニング娘。は、ロックボーカリストオーディション落選組から結成された。彼女らは「アイドル」になるつもりはなかったのだ。(中略)今でもモーニング娘。というグループは存続している。アイドルとして中堅以上の地位にいるものの、もう国民的アイドルではない。

モーニング娘。を始めとする、ハロー!プロジェクト所属のアイドルファンだった少女のうち一人は、現在、若手女性芸能人として、テレビで見ない日がない。そう、指原莉乃だ。(中略)誰からも愛される、“清純派美少女”とはいかなかった彼女の無印アイドルとしてのキャリアが、大きく花開いた形だ。


 この二つのパラグラフの構造はシンプルだが綺麗だ。アイドルというものの複雑さが読み取れる。どちらもなりたい自分になれなかったが成功した、という点は共通している。
 アイドルになりたかったわけではないのに、アイドルの王道をゆくことになって頂点を極め、その後もアイドルの王道のままだが、いつの間にか頂点にはいないものたちと、アイドルの王道を目指すがそこには行けず、王道ではないところで得たポジションでいつしか頂点に立っているもの。
 前のパラグラフが上がって下がるの表現なのに対し、次のパラグラフで緩やかに上昇する様子を表している。
 これはいい。ここが前振りになっている。
 中盤で、西田さんは問いかける。


私が指摘したいのは、なぜ、こんなにも<アイドル>なのか、ということだ。いま、若い女性が自己表現したいと思ったら、いちばん手っ取り早いのが<アイドル>なのは確かだ。私自身、アイドルという肩書を便利に使っている。とても便利なのだ。何物でもない女――学歴もなく特技もなく美女でもない女が名乗る肩書きとしてこれほど便利なものはない。

アイドルは肩書だが、職業ではない。

いや、アイドルはアイドル業をする労働者である。しかし、生業とはなりえない。


 この部分はなかなか鋭い。山括弧つきの<アイドル>と、括弧なしのアイドルが使い分けられている点も注目だが、最初のパラグラフのダッシュ記号以下、早口で言い捨てるような読点のない文。僕のもうひとつの持論、「西田さんが主張したくはないが言っておかなければならないと思っている部分は、句点が極端に少なくなる」というのに当てはまる。

 これでお膳立ては済んだ。あとは論を立ち上げるだけだ。この一文だけのパラグラフが二つ並んで、雰囲気をぐっと締める。
 次のパラグラフは長いが、ここに大事なキーワードが現れる。

「少女」は、子供でも妻でも労働者でもない、社会の構成員とはされない女。なんにでもない、他者だ。<アイドル>は、子供(保護されるべきもの)でも妻(や誰かの恋人)でもなく労働者(食うために働かざるを得ない我々と同じ立場)でもない。<少女>だ。彼らは女の子なのだ。

 ここが素晴らしい。「少女」が<少女>になり、冒頭の「女の子」と結びつく。
 西田さんは、自分の肩書はアイドルだとはしているが、<アイドル>だとはしていない。労働者の説明の中に「我々」という言葉を使っている通り、自分はそちら側ではない、としている。
 この折り目正しい文章から見通せる見事な構造がわかってもらえるだろうか。最初にここにたどり着いた時、静まり返った国会図書館の中で、思わずうめいてしまったくらいだ。

 これでまだ半分ほど。
 これは相当長くなりそうなので、いったんここで切ろうと思う。