映画を観たあとそのまま本屋に行って原作を買い、映像が頭に残るうちに読み切った。


流浪の月  凪良ゆう





映画の感想メモは↓

原作を読んでから映画やドラマを観ることの方が多いから、その逆が新鮮だった。

人物像が最初からあって、結末も知っていて、そこに向かって読んでいくだけ。

それでも映画だけでは描ききれなかった細かいところがいくつもあって、取りこぼさないように集中して読めた。



映画で特に印象的だった「私はかわいそうな子じゃないよ」という叫びが本だと更に強く訴えかけられているようで
映画で観るよりもっと更紗に感情移入してしまった。


映画ではただただ最低なやつにしか見えなかった亮くんの過去も描かれていて、ほんの少しだけ情が湧いたので更紗の『私もひどかったね』という台詞に映画よりは納得出来た。

暴力がなければ、傍から見た亮くんが更紗のことをストックホルム症候群だって強く言うのは分かる。真実を何も知らないから。

最後の病室で『なんでいつもこうなるかなあ』と呟いた亮くんの心の傷も痛々しかった。



映画だと気にならなかった文の居るカフェの店名、“calico”って更紗ってことか。と序盤に気付いて、見えない文の思いを強く感じた。
更紗の名前の由来もお父さんからだと言っていたのを思い出す。

映画では更紗の両親に対する深い思いがあまり語られていない気がして、本ではそこが細かく書かれているから
原作を読むと改めて、更紗の文に対する感情が恋愛感情ではないけど特別な感情なのだと感じる。

小説では序盤の、更紗がお父さんと文を重ねるような瞬間だったケチャップを指で拭うシーンを、映画では終盤で少し誤解を招くようなタイミングで入れたのか。
そこが不思議だった。

でも、小説でそのシーンは終盤にも出てきて
文が改めて幼い少女だけでなく女性に対して恋愛感情や性的欲望を持ったことがない、ということを再確認するシーンでもある。
そこも踏まえて映画の方をもう一度観たい。
あのシーン、文と更紗、両方の目線で違う2つの感情を描くことはできないだろうから無くても良かった気がする。

原作を読んでなくてもちゃんと観てれば文が小児性愛者でもなんでもなく病気が原因で色々なことを抱えてしまっているの分かるけど、
映画館で観終わった時に前に居た人達が「結局ロリコンってことでしょ」って言い合ってたのを思い出した。

あのシーンは原作読んでない人にそういう解釈をさせてしまうのかもしれない。




そして、本では説明されている文の当時の警察での取り調べについて。
身体検査までして事情も踏まえた上でしっかり罪を償っていたということ。
文の本来の目的はそこにあって、誰にも知られたくないけど本当は全てばれてしまえば楽になれる。
その思いが方向を変えて結果的に事件となってしまったのだと。



いくら自分が違うと言っても絶対に信じて貰えない状況がどれほど辛いのか、
とにかく読んでるだけで苦しかった。



文の恋人である谷さんが言い放つ台詞が映画の後だと余計にくるものがある。
文の事情を知ってしまったあとのこの台詞はやっぱり辛い。
でも、映画では描かれなかった谷さんの事情(身体的なもの)もあるのだという原作の部分があってこその台詞の流れだと思うと捉え方が変わった。
映画で谷さんの存在は割とあっさりしていた印象だったし、その部分は逆に原作読んでなくて良かったのかもなと思った。





事実と真実は違う。
原作で何度も繰り返された台詞。

自分にとっての優しさが相手にとっても優しさとは限らない。
自分を基準にして誰かを思いやることは、思いやりでもなんでもないのだと痛感した。


そしてSNSの怖さ。

「わたしを知らない人が私の心を勝手に分析し当て推量する。私自身がわたしを疑い始める。自分が何者なのか分からなくなってくる。」

その言葉が重たかった。



文と更紗、2人の結末に梨花も加わってより明るく前向きなハッピーエンドとなった原作のラストがとても好き。

映画より好きなラストだったから、後で原作を読んで良かった。



ぐっすり眠れそう、、


では今日はこの辺で。



追記

映画を観てから原作を読んだけど、原作から読んでいたら確かに物足りなさは感じたと思う。
梨花の描き方、亮くんの過去、谷さんの描かれ方、ラストの展開。他にも。
でも、本読んでるだけでは感じられない言葉の雰囲気や表情や辛さは間違いなく映画でしか味わえなかったなと思うので原作読んでる人はそこが新鮮な気持ちで観られると思う。
亮くんの暴力シーンや更紗の文に対する仕草や表情とその他との差、何気ない台詞の間とか空気感。
映画だけでも圧倒されたけど、本読んでさらに俳優たちのその凄さを感じた。
すごい。
原作先でも観る価値はあると思う。