202406月茶会レビュー:前半《茶の民族誌》第5章福建北苑団茶、烏龍茶の始まりについて | 船橋市茶文化資料室

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6月の月茶会は【《茶の民族誌》を読む】の2回目でした。今回は前月(2024年5月)の中国茶産地、武夷山と潮州の訪問報告に併せ、第5章福建北苑団茶、武夷山烏龍茶の部分を読みました。

 

《茶の民族誌》p264

「唐以前には実は福建台湾と云う名称はない....福建省は、唐代から宋代にかけて大きく発展し、漢文化の受容もちろんのこと、産業面においても、華南の暖かい気候風土を活かした各種産業が開発された...宋代帝室の御用茶を製した建安の北苑という有名な茶園も南唐★のときに始まったのである。宋の太宗が南唐の制に倣って北苑を供御の茶園と定めて以来、建茶の名は天下を風靡した。」

 

★感想:南唐はなんとう。937-975年。唐代と宋代の間にある五代十国時代に出来た国の一つ。唐の滅亡から北宋の成立まで約70年間の分裂期があり、南唐は江南に割拠した国であり、首都は現在南京市あたり。宋代の北苑茶と言えば、龍鳳団茶を指すことが多い。その始まりは南唐の臘面茶に倣ったと《宣和北苑貢茶録》(歳率諸県民、採茶北苑,初造研膏,継造腊面)にも記されています。北苑茶は北宋からというイメージがありますが、唐末の五代十国時代から閩北、現在の建甌の地に既に茶を盛んに造っていました。《茶の民族誌》p264もこのことを言及しています。

 

《茶の民族誌》p271

「....武夷の武夷茶、建甌の水仙茶及び安渓の烏龍茶等の如きは、悉く最も高き山峯の人跡稀なる到る所に在る...」

 

感想:ここは1930年の書物を引用している内容で注目すべき点は1930年代頃に閩北の茶を武夷の武夷茶と呼んでいて、「岩茶」と呼んでいなかったことです。重要な点はこの時の「武夷茶」は≠「岩茶」、武夷紅茶も含まれています。

 

《茶の民族誌》p278-279

清末頃の《崇安縣新志》を引用し、以下のように分析をしてます。

「...武夷山の烏龍茶および水仙茶は近年のものであって、その源は建甌から導入されたものではあるが、原種ではないことがわかる。」

 

感想:福建烏龍茶の発祥地に関しては二つの議論があります。一つは製法としての発祥地。安渓なのか、武夷山なのか、意見が分かれています。二つ目は福建省茶樹栽培の源についての議論。《茶の民族誌》p278に《崇安縣新志》(1940)の内容を引用し、“至於烏龍、水仙虽亦出于本山,然近代始由建瓯移植,非原種也。” (《崇安縣新志》より。訳:烏龍、水仙など茶樹は建甌から移植されたもので武夷山の原種ではない)と書かれており、《茶の民族誌》の著者がこの説を採っています。

 

ところが、陳宗懋の《中国茶経》では:“閩南是烏龍茶的発源地,由此伝向閩北、広東和台湾”(閩南は烏龍茶の発祥地で閩南から閩北、広東そして台湾へ広げた)と記載されいます。

 

これについて《茶の民族誌》p278さらに

「....武夷山方面の烏龍茶は、民国になってからのものと考えられるわけで、日本の大正期から昭和初期にあたり、烏龍茶が武夷山地方で、発生したとは到底考えられない」と述べ、広東潮州鳳凰山群の産地民族の畲族の手によって「半発酵茶」が「自然発生的に作り出され、畲族の移動とともに安渓に伝わり、その香りのよさから世に知られることとなり、烏龍茶の名声が高まったものと考える」。

 

感想:この畲族の手によって半発酵茶が造られた見解は《茶の民族誌》の著者、松下先生の独自の分析で中国側の分析と違う展開となっています。

 

この見解を知ってから、今回の武夷山や潮州の畲族村を訪ねることを決めました。松下先生の見解は史料の分析もありますが、その大部分は長い年月をかけての現地調査の結論だと思います。著者と同じ目線で烏龍茶を見たく、畲族村を訪ねてみることにしました。

撮影:20240512