『趙州真際禅師行状』3因有南方僧來舉,問雪峰:「古澗寒泉時如何?」 | 船橋市茶文化資料室

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『趙州真際禅師行状』3因有南方僧來舉,問雪峰:「古澗寒泉時如何?」

因有南方僧來舉,問雪峰:「古澗寒泉時如何?」雪峰云:「瞪目不見底」。學云:「飲者如何?」峰云:「不從口入」,師聞之曰:「不從口入,從鼻孔裏入。」其僧却問師:「古澗寒泉時如何?」師云:「苦」。學云:「飲者如何?」師云:「死」。雪峰聞師此語,讚云:「古佛古佛!」雪峰因此後不答話矣。

注:

⑩雪峰:雪峰義存(せっぽう・ぎそん)禅師(822-908)。唐末の五代の禅僧。俗性は曾。出身は泉州南安県(現在福建省泉州市南安市)。869年に福建雪峰山雪峰寺に住み、40年余の布教生活が続いた。現在福建省福州市閩候県にある雪峰聖禅寺は雪峰禅師ゆかりの地である。

 

訳:(青字。【禅語録傍訳全書・十・趙州録II 】を参照。()中の内容は訳ではなく私の蛇足です)

(唐末は南北往来の行脚僧が多かっただろうか、趙州のろころに)南方から(もしかして雪峰のところから)僧が来て師に(趙州に)次のような話をした。

雪峰禅師に “古澗寒泉の(ような心境)の時は、どうですか”とたずねたら、“目を見張っても底が見えぬ”と雪峰が答えました。そこで “その水を飲む者はどうですか”とさらにたずねると、“口から入らぬ”と雪峰が答えた

趙州はこの問答を聞くと言った。“口から入らず、鼻の孔から入る”。

すると(この南方からきた)僧が今度は趙州に同じことをたずねた。

“古澗寒泉の(ような心境)の時は、どうですか”

“苦(にがい)”と趙州が、

学僧が更に訊ねました。“その水を飲む者はどうですか”

“死(しぬ)”と趙州が答えた。

雪峰禅師がこの答えを聞いて、“古佛だ、古佛だ”と言って讃嘆した。

雪峰はこのことがあってからはこの問いについてもう触れないことにした。

感想

この話は「雪峰禅師語録」にも記されている。趙州は778年生まれ、雪峰は822年生まれ。趙州の方は雪峰より40歳以上年上だが、「北の趙州 南の雪峰」と言われるほど共に晩唐を代表する禅僧である。とくに福建省雪峰寺の雪峰は門人1500人を抱えるほどの人気師匠。人気のある師匠だから、「雪峰師匠のところでこんな問答があって師匠がこう答えたよ」と各地を行脚する学僧達はその噂をする光景も、想像に容易いことだ。やがて南からきた一人の僧侶が趙州に雪峰の噂をし、同じ質問を趙州に訪ねたのである。面白いのは、趙州の答えは風の便りだろうか、また雪峰の耳に入って趙州のことを“古佛古佛”だと出家者として最高の褒め言葉を言ったのだ。悟りの境地を表す「古澗寒泉」は今も名公案のひとつとして知られている。

6世紀のインド僧達磨が中国に渡来して始まり、唐代に中国独自の発展をみせた禅宗。この【行状】を読むと、本当にみずみずしい活力に満ちた個性を感じる。【趙州録】408条に「師示衆云:向南方 ,向南方趨叢林去,莫在這裡。僧便問,和尚這裡是甚處?師云:我這裡是柴林」(師、衆に示して曰く、“南方の禅林に行きなさい、ここにおるな”。すると僧が訊いた“老師の所はどんな所ですか、”師が“わしの所は柴山だ”。)仏法を知りたいなら南方の寺に行きなさいと言い、自分の所はただの柴山だと言った趙州。自分の所には仏法がないというよりは、“禅者としての自負がひびいている。”(秋月龍眠【趙州録】)

南方雪峰寺の位置マップ↓