『趙州真際禅師行状』2師受戒後,聞受業師在曹州西,住護國院,乃歸院省覲。 | 船橋市茶文化資料室

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柏林禅寺の客堂にて2017年5月撮影

『趙州真際禅師行状』2師受戒後,聞受業師在曹州西,住護國院,乃歸院省覲。

原文

師受戒後,聞受業師在曹州西,住護國院,乃歸院省覲。到後,本師令郝氏云:「君家之子遊方已回。」其家親屬忻懌不已。祇候來日,咸往觀焉。師聞之,乃云:「俗塵愛網,無有了期。已辭出家,不願再見。」乃於是夜,結束前遇。其後自携瓶錫,遍歴諸方。常自謂曰:「七歲童児勝我者,我即問伊。百歲老翁不及我者,我即教他。」

①受業師:曹州で出家した時の師匠。

②省覲:探望。目上の方や年配の方を訪ねる。

③祗候,zhī hòu恭候。うやうやしく待つ。

訳(青字)

師は受戒してから、曹州の師(本師)が曹州の西にある護国院で住職をしていると聞いて、曹州に帰って師に会いに行った。(南泉の池陽から曹州に戻った)本師の寺に着くと、本師は師の生家の郝氏一族に使いを出し、“貴家の息子さんが行脚から戻ってこられた”と知らせた。郝家の親族たちは、それを聞いて大変喜び、次の日に会いに行こうと思った。師はこれを聞くと、「俗世の感情には終わりがない。すでに俗世と縁を切って出家したからには、二度と家族とは合わない」と言って、その晩に旅の仕度をして行脚に出た。その後、水瓶と錫杖とを携えて、諸方を遍歴修行した。いつも自分で言った。“七歳の子供でも、自分より勝れている者には、教えを乞おう。百歳の老翁でも自分に及ばない者には、教えてやろう”。

原文

年至八十,方住趙州城東觀音院,去石橋十里已來。住持枯槁,志效古人。僧堂無前後架,旋営斎食。縄床一脚折,以焼断薪,用縄繋之。毎有別制新者,師不許也。住持四十來年,未嚐賫一封書告其檀越

④趙州城東觀音院:河北省石家荘市趙県にある「柏林禅寺」の前身。唐代は「観音院」という。

⑤石橋:趙県にある「趙州橋」のこと。「大石橋」とも呼ばれている。参考記事↓

禅語「喫茶去」ゆかりの地「柏林禅寺」探訪③千年アーチ石橋(趙州橋)の「古」と「新」

禅語「喫茶去」ゆかりの地「柏林禅寺」探訪④千年アーチ石橋(趙州橋)の「古」と「新」続編

⑥前後架。「前架」と「後架」。一般的に「前架」は「僧堂」の外堂にある棚のこと、或いはその場所のこと。趙州和尚の観音院の伽藍はどのような造りがわからないので「前架」についても不明。「後架」は洗面器などを置く棚のこと。「僧堂無前後架」というのは、趙州の僧堂には「前架」も「後架」もないとのこと。

⑦縄床:縄を張ってつくった粗末な腰掛け。主に禅僧が座禅のときに用いた。《坐倚縄床閑自念、前生応是一詩僧》(唐・白居易《愛詠詩》)

⑧賫jī 。繫体字「齎」ア、心に抱く。例:賫志而没。イ、人に物を与える。ここでは手紙を送る。

⑨檀越tán yuèだんおつ。寺や僧に布施をする信者。檀家。

訳(青字)

齢80歳になって、初めて趙州の街の東にあった「観音院」に住職した。観音院は石橋から10里あまりの所である。貧乏寺の住職でやせ衰えたけれども、古人の遺風を引き継ぐ志を持っていらっしゃる。僧堂には「前架」も「後架」もない簡素なものでともかくも食事ができる程度であった。坐禅用の椅子の足が一本折れると、焼け残りの薪を紐で縛りつけた。他に新しい物を造ろうとする者があると、そのたびに師は許さなかった。住職をして40年の間、檀家に手紙一本届けたことはなかった。

感想

各地を編歴し趙州は80歳頃にやっと観音院に留まったが、そこには定住した気楽さなど、微塵もない。そして「住持四十來年,未嚐賫一封書告其檀越」(住職をして40年の間、檀家に手紙一本届けたことはなかった)というのは、自ら俗世との縁を断ちきろうという強い意志が窺える。趙州の高潔さ、信念を貫く頑固さを感じる。

「喫茶去」の背景はここにあるではないかと思う。

柏林禅寺方丈室玄関の門楹。

右:万法本空 問祖師帯来何物 (万法もと空、祖師(趙州よ)は、一体私たちに何を残したか)

左:一塵不染 要当人直下承担 (一塵不染、こころ常に雑念無し、(困難の前に)直下に承担する)