期待するから失意のどん底へ落ちる(私がブログを始めるまでのこと)③ | 心をパステルで描いてみようよ♪

心をパステルで描いてみようよ♪

「パステル和アート」
「曼荼羅アート」
「点描曼荼羅」と出逢い
描くことで自己表現できる幸せを感じています(*^^*)
その時その瞬間、感じる色 イメージを大切に。。。
梵字・龍体文字・カタカムナウタヒ・写仏と曼荼羅アートを併せたオリジナル作品も描いています

 

私の産んだ息子は

保育園のころは、流行病で

何度か入院しないといけないことがあったり

 

小学校入学してからは

花粉症と紫外線によるアレルギー反応がひどくなり

目の周りが真っ赤になり

顔全体も腫れあがるほど症状がひどくて

受診を繰り返し、飲み薬塗り薬点眼薬の治療を続けて

そうなると、暗い静かな部屋で安静にしないと

症状が改善しないので

よく学校を休まないといけなかったり

注意を払わないといけない子育てでした

 

 

息子のために一生懸命でした

仕事と子育てに必死になっていました

 

 

アパートで独り暮らし

会社員になったことで

自立した次男(元夫の子)のことは

もう大丈夫かな・・・と
ときどき連絡をとる程度になっていました

 

 

 

 

そして、そんなある日・・・

私は、両親から言われました

 

 

「小姑が家にいたら、(私の)弟にお嫁さんが余計に来ないから」

 

 

 

 

小姑はわたしのこと・・・
障がい者の両親の上に、出戻りの小姑がいたら

弟のところにお嫁さんが来にくい・・・ということ

だから

弟のために、私と息子は出ていって欲しい

という意味です

 

 

 

確かに、実家にずいぶんお世話になってしまったし

自立しなければならないことも確かでしたが

私のことよりも、これからがある弟のことを

両親が優先的に思うのも、当然のこと・・・

 

わかってはいました・・・

それでも、私と息子は外の人間なんだな・・・・と思ったら

かなりの衝撃でショック過ぎて

陰で大泣きしたことを思い出しました

私はもともと、HSPの気質だったから

些細なひとことも、ものすごく心に刺さってしまい

言った側はそんなに深い意味で言ってなくても

爆弾級に感じてしまうために

落ち込みもひどかったです・・・

 

 

 

それでも、その頃はまだバリバリ働けていたし

収入もそれなりにあったので前向きでいられました

 

間もなくして、たまたまいい物件があり

息子を連れて実家を出ました

 

 

 

息子は小学5年の2学期に

引っ越し先の学校へ転校したのですが

高学年になると

まわりの子たちとの関係が難しくなっていて

仲間外れや意地悪、いじめにあうことが増えていました

それでも、歌が上手な息子のことを

音楽の先生が合唱部にスカウトしてくれたおかげで
大好きな合唱部を楽しみに

なんとか頑張って、小学校を卒業まで通うことが出来ました

 

中学にも、楽しみに通い始めましたが

夏休みを過ぎたころから、だんだん行き渋るようになり

また学校でいじめにあうようになっていたのです

 

ちょうどその頃
私は長く勤めた職場を退職して

新しい職場に転職しました

息子のために、自分のために

ちゃんとしたお休みが取れて

夜は家にいられるように・・・

 

なので、私は新たな職場に慣れることに必死で

息子にも叱咤激励しながら

半ば強引に学校へ行かせていました・・・

 

 

 

 

でも・・・

ある日、息子が私に言いました

 

 

泣きながら

「お母さん、もう僕を学校に行かせないで」

「お願いだから、もう僕を怒らないで」

 

と・・・・

 

 

 

 

 

はっとしました
 

そんなにつらかったんだ
 

 

 

なんてことを私は、息子に言わせてしまったんだろう

学校には行かせなくちゃ、将来に繋げなくちゃ

今つらくても、頑張っていれば

そのうち息子も自信がついていく・・・って・・・

 

まったくの私のエゴ!!!

 

私のこだわりのせいで

こんなに辛い思いを息子にさせてしまっていた

 

なんてひどい母親だったんだ!

学校へ通うことが当たり前だと思い込んでいた私・・・

 

 

学校というとこには

息子の居場所はなかったのだと

初めて、私は気づいたのです

 

 

そこで私の気持ちは決まりました

息子を

こんなにボロボロに傷つけた学校に

無理して行くことに なんの意味があるんだろう?!

 

 



クラスのみんなからの仲間外れ

上級生からのいじめ

多数の生徒の中の1人のことよりも

多数の普通の生徒側だった担任

担任は、息子のことを守ってはくれなかった

 

心が弱っていた息子 勉強も学校の中のルールも

息子には難しく、理解しにくい状態だったこと

 

様々なことで息子は疲弊し

気力を失い、みんなが出来るあたりまえは

息子には当たり前ではなかった

 

まだこのころは「発達障害」ということが知られていませんでした

担任も

息子のことを、ただの甘え・怠け癖と決めつけていたから

 

 

 

薄々は息子の特性に気づいてはいたものの

私もなんとかなるんじゃないか・・と

思っていました・・・が!

 

もう息子の望むようにしよう!

泣いてばかりいた息子の笑顔を

私は取り戻さなければいけない!
元気で、笑ってくれてさえいれば十分じゃないの?

 

 

 

「もう学校へは行かなくていいよ」

 

 

 

そのときから、私はいっさい怒ることをやめました

怒られることは、息子にとってはただ怖い・辛いだけ

怒られることは「お母さんが怒ってる」という事象だけで

 

「何を」「どのように」「なぜ」

 

怒られている内容なんてまったく理解出来てはいなかったのです

 

勢いに任せて、自分の思い通りにならない息子を

母親である私も

怒りという感情を先行していただけだったことに

やっと、気づいたのです

 

 

 

 

息子にとって一番安心で安全な場所は

私と一緒に住む家

この時住んでいたのはマンションだったので

セキュリティも大丈夫

食べるものを準備しておけば、息子はお留守番は大丈夫でした

 

だから、とにかく収入を得ること

仕事を頑張る事に私は集中していました

 

 

慣れない職場で、自分の仕事を確立し

まわりの職員に認めてもらえるように

 

違う世界から来た私は

最初のころは

何かとその職場でのあたりまえというトラップに

知らぬ間にはまることが多かったので

敵地に乗り込んだ気分で

毎日、緊張の中にいました

 

 

 

 

つづきはまた