YUUYAの徒然なる電影欣賞
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アポロンの地獄・・・オイディプス王の伝説は輪廻する?


YUUYAの徒然なる電影欣賞

【映画鑑賞日記 No.018】
『アポロンの地獄』
 

…1967年 【イタリア】
[原題: EDIPO RE/Oedipus Rex ]


<時代背景は・・・3部構成か?>


ギリシア神話で有名なオイディプス王の伝説---ギリシア詩人・ソポクレス戯曲でも有名---をパゾリーニが脚本を書き監督した作品。その最終的な視点は現代社会だろう。
この映画、冒頭は中世?・古代ギリシア・そして現代と時代背景が3部で構成しているのか?

冒頭・・・窓越しより胎児が誕生したのが見える。そして雄大な汚れ無き自然の背景、野原・木々、

その隙間より見える晴れた空---その中で母親に抱かれ描かれる胎児。
乳母車に乗せられた赤ん坊。見つめる軍人。『互いの視線が譲らない、凝視し合うシーン』が字幕画像の言葉を強める。
「お前は私を殺し私の地位を奪い、私の持てるものの全てを奪うであろうお前は私の愛する女を盗む・・・すでに盗んでいる」
乳母車の中、そして後の夜のベランダで目を手で隠す赤ん坊。この仕草は、後に古代ギリシア編のオイディプス王の仕草・行為、またはエディプスコンプレックスと関係を持たせたのか・・・。
この映画では「演出」、「俳優のポーズ」が特異でオーバーアクション的に感じた。
見初めはそれらを漠然と見て、その解釈を避けていたがエディプスコンプレックスを調べるに連れ、これと繫がりを持たせた監督の「演技指導」だったのか、と思う。

<古代ギリシアの話がメインで、その乾燥した風景>


冒頭・・・ベッド上で両手で足首を持ち上げられる赤ん坊。冒頭と同じ赤ん坊の持ち方だ。

スフィンクスのなぞなぞと絡んでいるのか?覗き込み足の数を確認させるかのような映像だ。
この拾て子はオディプスと命名されコリントスの王、王妃メローぺに育てられ、あるきっかけで神の信託を聞く旅に・・・その土地の石碑には「コリントス」の文字が・・・
「お前は父親を殺し、母親と情けを通じる。神の仰せに間違いはない。この土地の人々を汚すな」
再度、「コリントス」の石碑を背にし立ち去り絶望の旅に出るオディプス。
そして今度は石碑に「テーベ」の文字が・・・

古代シーンは背景映像が「乾燥した大地」でほぼ占められている。
晴れた空の下で砂埃が立たず大地に根付いた茶色の土。単調で粗さも感じるかも知れないが、

束縛された呪術のような運命から必死に逃れるようとするオディプスの心境を表現しているような

荒涼とした風景だ。
前述の石碑は「運命が変わる土地・オディプスの進路」の分岐となる象徴であるがその大地の迫力に圧され、

見分けが付きづらいのが難点か。(字幕で判別できるが)


<この頻繁に演出されるポーズと灼熱の死闘>


古代シーン、節目・節目で太鼓と笛の音楽で強調され、場面が裁断されるが・・・
加えてオディプスの数度が演出されるポーズが印象的だ。
[仕草1 : 顔(目)を隠し、その場でぐるりと回転する。]
・・・但し、顔の隠し方は片手だったり両手、或いは拳だったりシーンによって異なる。
[仕草2 : 目を見開き右手の甲を口に当てる。]
・・・ちなみにこの仕草、自分も癖になっている全く同じポーズなんだよな。
(オディプスは手の甲は噛んでいるかも知れないが、自分は噛まないで当てるだけ)

「テーベ」でのライオス王の一行との決闘。灼熱の太陽を逆光としての艶やかな殺人シーンの連続、そして災いの源、スフィンクスとの決闘。これらも迫力が光る映像だ。

その後、物語は「テーベ」に疫病が流行る。今度の大地は赤茶色に染めて仰向けになる人々の死骸、泣き叫ぶ赤ん坊、そして空には鳥が・・・、死体から物を盗む人々。
義弟の「クレオン」のアポロンの神託の報告、盲目の老人、「ティレシアス」の予言。
オディプスは耐え難い話を耳にした後、「お目通り」を依頼した老人を通じ、ライオス王の死を知らせた羊飼いに会う---が実はこの男の正体は・・・そして物語はクライマックスへと・・・
---最後の現代のシーン、コンクリート・灰色の近代建築を背景に球技に励む若者達。

その中で広場で笛を吹く一人の盲人。「アンジェロ」と呼びその若者の手を借り、雑踏より野原へ。

緑の木々から、かいま見える澄んだ空。冒頭の情景と極似している。
「もはや見える光よ。かつて私のものだった光よ。もう一度私を照らしてくれ。やっとたどり着いた。人生は始まった所で終わるのだ。」


<不可解なシーンもあった---エディプス・コンプレックス は輪廻転生する?>


花火が打ち上げられた最中、ベランダに出て徘徊した赤ん坊は単に奇を衒った演出だろうか?
過酷な運命の悪戯を王妃は許せず自殺したのだろうか?それにしても服を剥ぎ取り裸にした理由とは・・・
一番、不可解だったのは「テーベ」で陽気な音楽、食事の中でオディプスが出会ったその土地一人の少女。この一言も口を交わさず、見つめ合った少女は一体何の演出目的だったのだろうか?
そしてこの映画、父親を憎み母親を愛した---エディプス・コンプレックスを持ったパゾリーニ監督の自己体験も多分に含蓄されているらしい。
このエディプス・コンプレックスについて
「親の世代になった時にも息子に対する第二次エディプスコンプレックスが来る」
とあるサイトに書かれていた。その心は・・・
息子が幼く未熟な内は、自分を模倣し自分の分身として可愛がるが・・・
息子が成長し、自分の自我を持った時、自分の存在を脅かす者と実力が認識された時、潰しに掛かる。

なるほど、本作の舞台が古代ギリシアのみならず、冒頭の華やかなシーンと現代に生きる盲目の笛吹きまでも映したのは、フロイトが提唱したエディプスコンプレックスは古代より現代まで脈々と引き継がれている不変的な人間の性質という事を強調したかったのだろうか。

エディプスコンプレックス、輪廻転生とも結び付けられなくはないだろうか?

4匹の蝿 ・・・蝿が入っていたものは


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【映画鑑賞日記 No.017】
『4匹の蝿』

…1971年 【イタリア】
[原題: QUATTRO MOSCHE DI VELLUTO GRIGIO/FOUR PATCHES OF GREY VELVET/FOUR FLIES ON GREY VELVET]


<英題にホシのヒントが・・・>


ダリオ・アルジェントの幻の作品---”動物3部作の最終章”という事で鑑賞した作品。
ポスターからは、サスペリアⅠを彷彿させるカルト・ホラー的な作品を想像していたが、

感想はサスペリアⅡに近い推理作品で、この作品より本作の方が面白かった。
(コメディっぽいシーンの評価込みで)


エンニオ・モリコーネの担当するビートの効いた音楽のオープニング
…ギタリスト、ドラムを叩く主人公に纏わりつく蝿。闇の背景に鼓動する心臓の映像とその鼓動の音。
そして蝿が演奏終了時にシンバルで潰される。
蝿の数が題名と合致しない!さらにこの蝿は連続殺人事件の謎解きと、どう絡んで行くのか・・・。
上映中ずっと頭の片隅に引っかかり鑑賞していたが、最後の最後で・・・

『灰色のベルベット』と共に---そういう事なのね。


<消去法で解を与えない為の迷彩?・・・>


主人公を付回したあげく、劇場へと引き込み、殺人を犯させる。
そのシーンを客席から仮面を被った人物がカメラで写す。
その後、証拠写真・電話・そして広場で首を刎ねられる夢・・・
不可抗力とはいえ、主人公が殺人罪の意識にさい悩まされる印象が薄かったのは
展開的にマイナスだったか、と思うが独創的な舞台設定と暗い背景色・濃い色彩で縁取られた人物映像、

謎解きとしても飽きさせない内容だった。
雇った私立探偵が演技・会話共にコミカルではあったが、理詰めでホシのシッポを掴んだが地下鉄のトイレで・・・ここはシリアス映像で思わず無念!を感じたシーン。
死体の眼球の網膜からレーザー光線で映し出された物は・・・
ここも笑える(失笑)シーンではあるが、全体を通して見れば・・・許せてしまう。
というよりこの辺が奇抜でアルジェントらしいかな。


猫・小道具の演出も凝っていて、後半に数度、挿入される主人公を心配し言い寄る

友人・知人のシーン。

彼らの中に犯人はいるのか?と思ってしまったが、これらは迷彩だったとは・・・


<ラスト・シーンも印象的で・・・>


ベルベット?でなく、ショート・カットで色白、細身の方が身に着けているペンダントの中の蝿が・・・解答。

その原因は「トラウマ」だったとは・・・動機も意外。
その美女が運転する車の衝突するラスト・シーン。血生臭くないが、

スローで回してる映像がそれとなく狂気性も浮かび出させている印象。
加えてエンドの音楽もマッチしていて、「アルジェントの独創映画の堪能」という余韻をエンドロールが切れるまでたっぷり浸らせるラストであった。

 

スリ(掏摸) ・・・ モチーフが「罪と罰」?


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【映画鑑賞日記 No.016】
『スリ(掏摸)』 

…1960年 【フランス】
[原題: PICKPOCKET]


<筋書きのカラクリは「罪と罰」らしいが・・・>


病弱の母を持つ大学生がスリを働き、逮捕されるが、証拠不十分で不起訴される。
母を訪ねた際、ある女性と出会い、後に彼の人生を左右する存在となる。
スリの犯行の目撃、スリの達人の勧誘を経て、警察にマークされながらもスリを生業とする日々・・・。
母の死、家宅捜査と警部の自宅での忠告・・・の出来事を経て警察の目を逃れる為、英国へ飛ぶ。

その土地でもスリを働いたあげくにパリに帰国。
しかし彼を待ち受けていたものは「警察の罠」だった。
スリの現行犯逮捕、そして牢獄の中で、遂に彼は自分の運命を悟る・・・
『君のもとへ行くのに何と回り道をしたことか・・・』

脚本・台詞のローベル・ブレッソン作であるが、ドストエフスキーの「罪と罰」をトレースされ展開されているらしい。この「罪と罰」の知識が無く、本作を鑑賞したのは正解だったのだろうか・・・?


<静寂スタイルで・・・心理推移は難しいか?>


『この映画は推理物ではない。監督は画像と音とによって若者が自らの弱さのために
スリの冒険に駆り立てられる悪夢を描いている。

だがこの冒険は奇妙な経路により永遠に知り合うことのない二人を結びつける。』

…字幕を流し、映像は便箋だろうか?筆を走らせるの「手」のアップが・・・

スリのシーンが本作で訴求する本筋でない事を記しながらこのシーン。

その後に競馬場を皮切りにスリのシーンが頻出することからどうしても視線はスリを働く「手」に行ってしまう。
この「手」の映像にウェイトが置かれた印象が拭えず、スリ描写でを抑える演出が長かった為か、

人物の感情起伏・心理描写の部分が弱い。

ラストでは幸福を見い出すシーンで完結するのだが、平坦な台詞と絵に感じてしまった。


この青年がスリに傾倒する過程の自惚れ的な人生哲学とも取れる祝勝な台詞・・・
『力のある人間、聡明でいわんや才能にも天分にも恵まれ社会に必要な人間は
凡々と生きないで法を犯すこともできる・・・』


<訪問した警部、そして芸術的な「スリの連携プレー」>


友人が彼の生活・人生観を忠告しても、彼は無視する。
『スリはどんなに達者でも人間性を発展させない。・・・』
しかし対照的に、警部が彼の部屋を訪問し、話した台詞は主人公の心に破片として刺さった筈だ。

・・・本作のターニング・ポイントと感じた印象的なシーン。
警部は、彼が「実の母にスリを働いた」ことを断言し、まるで彼の再逮捕を見透かし警告を促す暗喩的な言葉を残す。
(主人公)『あなたの意図は?・・・それを知りたい!』
黙って帰る警部・・・。


この警部と彼の友人の共通項はGeorge Barrington著「Prince of Pickpockets 」 を彼が愛読していることを知っている事だ。

二人もこの本を読み、彼が著者を心酔し今後もスリに傾倒し続けると悟ったのだろうか。

心理描写が掴みきれなかったが、なかなかの演技力と感じたこの警部を初め、役者が全員素人との事だが、

そう思わせない適材な配役だ。


静寂の中、主人公一人で淡々とスリをはたらく映像と比して、スリ仲間と知り合い仕事をこなすシーンは魅入ってしまった。一転して動的な映像。圧巻は列車でので「スリの連携プレー」…「手」と「手」が交錯し、その「戦利品」がベルト・コンベア上の荷物のように移動する「イルージョン」映像、ここは一見の価値あり!


<閉塞空間を抜ける度に心理変化が見取れれば・・・>


競馬場・地下鉄・・・群集の中で視線を避ける為に必要条件である閉鎖空間を作りスリ行為を働く。

主人公のスリの練習場所でもある狭いアパートの部屋という生活の拠点。こちらも息苦しさを感じさせる閉塞的な空間印象だ。最小限のセリフ・ナレーションが逆に功を奏する舞台だ。


この「アパートの部屋」の映像が映され青年が出入りする度に、背景には必ず行く手を左右する出来事が起こる。応じて青年の心境の変化も存在するばずであり、これが明瞭に読み取れる演出であれば・・・
「警察と縁が切れて僕は落ち着けた。」が、狡猾な罠にハマり身柄は警察に・・・
その後の牢獄での主人公の改心の描写は不足しており、ジャンヌとの再開も薄味となってしまい・・・惜しい!

血を吸うカメラ ・・・これぞ「トラウマ」?


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【映画鑑賞日記 No.015】
『血を吸うカメラ』 
…1960年 【イギリス】
[原題: PEEPING TOM]


<そういう、語彙があるのね・・・>


女性が殺される恐怖に脅える、死の直前の表情をドキュメンタリーとして8ミリカメラに収める快楽を持った主人公(=「マーク」)の連続殺人。邦題はその凶器から付けられたのだろう。
最終的に、犯人捜査の矛先は、「マーク」に向けられるが、彼は既にその一連の連続殺人のフィナーレを頭の中で描いていた・・・。
『(捜査に来る警察を見て)やっぱり』『記録映画の仕上げだ』
動機となった彼の「女性の恐怖表情コレクター」としての異常心理背景は過去の父親とのある出来事と相関を抱かせるシーンが・・・。

原題の語彙(=のぞき魔)が解らず、調べた。なるほど、人名を使用した慣用句だったのか・・・。語源は本作と同じくイギリスで、その由来についても面白かった。
また、作品レビューで原題は「出歯亀」に相当すると目にし、こちらも調べる。
「窃視症」・・・当にこの作品の主人公の行動様式にピッタリの語彙だ。
『観淫症、性的なのぞきだ。彼(主人公)の父が研究を・・・』


<スタートから興味をそそって・・・感想は?>


スタートより・・・矢が的の真ん中に刺さる映像。ピアノの音と共に瞳孔を開きながら青い目が映される。

監視カメラを懐に持った男が売春婦の元へ・・・
「2ポンドよ」・・・興味をそそられるシーンではある。但し、カメラ越しの映像効果を鑑賞者に訴えるにはやや工夫が不足したか?


作品自体の感想としては、血の色を意識したであろう赤を基調にした映像がいい。
夜の撮影所で殺害されるまでの女優のダンスシーンのみ長く感じられたが、テンポの良い展開で、要所要所でピアノ音楽(伴奏)が下手に「精神異常」を明示する内容を遮ることなく小気味良い。
一見、カメラ好きの撮影技術者と見受けられる主人公に内在する「異常心理」が呼び起こす連続殺人

・・・ストーリーの骨格はしっかりしていて面白い。


この映画に影響を受けた異常心理射サスペンスはありそうだし、似たような映画も今後、出てくるであろう。
主人公の恋人の母親が「盲人」であり、そのステッキは主人公の凶器=三脚と絡むシーン、その背景の心臓の鼓動を表現した音楽も面白い。
このように枝葉にも骨組みを支える面白い道具(ネタ)が散在しているが。
如何せん、その本筋と道具の結びつきが弱く感じるのはなぜだろうか?
狂気殺人シーンを現代的に「グロく」、「スプラッター」的に撮影できずに迫力が不足したのは時代背景的に仕方ないのだろうが・・・


<印象に残るシーンと「トラウマ」とは・・・>


主人公が恋人に幼少の頃の自分の映像を見せる。
・寝ている時にトカゲに襲われ、恐怖と諦めが混在した表情。
・母が死に、後妻として再婚した女性と恍惚とした表情。
『父の興味は恐れに対する神経系の反応だ』

その後、本棚に置かれた心理学の研究者であった父の本の背中を拳骨でこするシーン。
これが最も印象に残ったシーン、ベスト・ショットと感じた。
恐怖を与えられる対象となり続けても、尚、その父を愛着して止まない膠着した心理。
恐怖=憎しみを超え、尊敬の念を抱くその理解に苦しむ心理。
『僕は(父の研究に)役立ったこともある』『父は素晴らしかった・・・』
『父のやり方だ。どの部屋も盗聴できる。』


父に撮影される側で虐待=実験台となっいた主人公がなぜ、被写体を写す側として享楽を見出したのか?女性のみを被写体とした理由は?幼少の写真で共に写っていた再婚した女性と関係があるのか?
など、整然とできない部分もあるが「トラウマによる殺人」
・・・この映画を見て、それまでピンと来なかった『トラウマ』という言葉を理解し得る断片を手に入れた気がした。


「助けてほしい・・・魔法のカメラより」---主人公が肩身離さず所持していたそのカメラにひっかけた「血を吸うカメラ」、観て損のなかった映画であった。


緑色の部屋 …人間は二度死ぬ?


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【映画鑑賞日記 No.014】

『緑色の部屋 』 
…1966年 【フランス】
[原題:LA CHAMBRE VERTE/THE GREEN ROOM ]


<人間は二度死ぬ? ・・・重い映画テーマ>


人間は二度死ぬ
---「人間には命が消えていく死と、名前が人の記憶から消えて行く死」の二つだ。

砲兵隊として第1次世界大戦に参加した主人公・ジュリアン(F・トリュフォー)のゆっくりとうつむく顔。背景はその戦争情景もブルーを基調とした色彩で映し出される。
ジュリアンは「生存している人間」に興味がなく「死者を愛し忘れない」頑とした人間。
と人が変わった原因は「愛妻の若すぎる死」に加え「戦争で大勢が死に自分だけ助かった悔恨」の念が重畳されているのだろう。
「私の友達はみな戦争で死んだ。死者の代わりはいない。思い出の中にいるだけ。」
冒頭から「人の死」に纏わるこの会話だ。会話のテーマは重い。
★棺に収まった死者を目前にした神父に対し、
「愛は永遠に耐えて待つことではない。必要なことは死者をすぐ蘇らせることだ。」
★彼と同じく妻を亡くした男に対し、
「愛は死者を蘇らせる。君次第だ。愛があれば死者は生き続ける。」


<グレー・ゾーンで生き続けるということ①>


ジュリアンはこれだけでなく、「死者への愛」を持たない、持ち続けない人間も排他し、
現実の世界と隔絶した領域、グレー・ゾーンで生きている。その決意は固い。
しかも自分が「愛す・守るべき死者」、そうでない「死人の扱い」線引きも明確だ。
★かつて友人で裏切られた政治家・ポール・マシニーの死に対し、
「彼は私に人間の醜さを教えてくれた。憎んでなんかいません。それ以上です。」
「私は学んだ。人生は残酷な生存競争だとね。うんざりです。むしろ傍観者のほうがいい。」
傍観者として生き続ける」ということは、「人」との触れ合いを絶ち、「人生の楽しみを避けて続け」て、流れ続ける時間の中で記憶を止めたままにすることであり、「生」と「死」の中間で現実社会を生き続けるということだろうか?


<「許す/赦す」を認めて生き続けるということ②>


★この主人公に対し妻の形見の競売品売り場で知り合った女性・セシリアの見解。
自分が愛し、または信頼した人間が豹変し、裏切ったとしても・・・それを忘れ、或いは許す時期は訪れる・・・
「うまくいえないけど、忘れることも必要だと思うの。私は死者だけでなく生きている人も愛します。」
「誰かが死に誰かが生まれる。死んだ友達の代わりに新しい友達ができる。
それが人生よ。一つの愛を失い、もう一つの愛を見つける。自然の摂理よ。」


<自分の解答は見出せず&言葉にもまとめられず・・・>


本当に人を愛したことがなく(愛が足りない)、または「心の貧しさ」からであろうか?
自分にとっての死者は生きている空間の中に現れないし、現実の生存者のように人物印象が変わりもせず、幕引きしたまま不変である。確かに死者の思い出は記憶の中に残っており「二度目の死」が来ていない状態にも関わらず・・・生き続けた状態ではない。
自分の死に対し深く考察した事もなく、死後の存在を信じていないからだろうか?
自分の死後を「敬う」人間がいなくても、忘れ去られて二度目の死が来ても構わない。
今は現実社会で前進することを躊躇していない

この社会で裏切り等の「人間の醜い心」に出会う事、自分の方がそれを曝け出すことも避けられないだろうが、その逆にも多く出会えるはずだ。
例え誰かを愛したとしてもその人の「死」を恐れて愛することを止めてははいけない。
確かに自分が、愛する人が死期を迎える事の想像すると・・・

その時はその時。間違いなく、その苦しみ・恐怖は多くの人と同様、自分にも乗り越えられるはずだ。


<ラスト・シーンの意味するものは・・・?>


この映画のラスト・シーン、どう解釈すれば良いのだろう・・・未だに整理がつかない。
(1)主人公が死の間際に「人の罪の赦し」の心を抱いたのだろうか?
(2)主人公が愛する死者の眠る「死者の祭壇」を維持する為に「憎むべき人間」でも蝋燭を立てたかったのか?
(3)主人公が最後の土壇場で「生きる人(=セシリア)」に対する愛情の心を持ち、彼女の愛する死者の蝋燭を立てることを許容したのだろうか?


<追記:N・アルメンドロスの撮影とN・バイの美しさ>


撮影の名手と誉れ高い「ネストール・アルメンドス」の映像は御覧あれ。この映像美だけで作品の鑑賞価値あり。
ナタリー・バイは最後のロウソクが照らされるエンドロールは無論、「(私に会う)資格が欲しいなら試験をするわ。私の目の色は」・・・と手で目を隠すシーンが印象的。本当、ベッピンさんだな・・・これも一見の価値ありか?

ひなぎく/SEDMIKRASKY 


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【映画鑑賞日記 No.013】
『ひなぎく/SEDMIKRASKY』 
…1966年 【チェコスロヴァキア】
[原題: SEDMIKRASKY]


<騙された謳い文句=「ハチャメチャなガールズ・パワー」>


少女二人が自由という名を借りた我侭・気ままさを求めて活発に活動するが、

結局は当然のごとく、その行動にも行き過ぎには制限があり、法(権力者)の洗礼=罰則を受け反省するだけの物語。75分と短いがそれ以上に長く感じる映画であった。


ハチャメチャ行状記という謳い文句と裏腹に少女達の行動は当時の共産圏の抑圧的な社会背景を加味しても、中途半端でジレンマを感じ、味気ないままに終わった。

ダンプ松本や椿鬼奴を髣髴させるアイシャドーは印象に残ったが、頭と後ろに挿入された戦争カットは・・・「反戦」を訴えると暗喩と受け取るには程遠い。
鑑賞している自分が少女二人に対し「もっと思い切りよく!」と後押ししたくなる。

例えば、冒頭の鼻くそをほじくり、壁にこすりつけるシーン。「どうせだったら口に入れて食べちゃえよ。」と・・・
トリッキーで人目を引こうとする行動が空転し、周囲の目すら止めてもらえない。
君子危うきに近づかず・・・誰も関わりあいになりたくないのだ。
「変ね。私たちは見えないのかしら」
若さだけが武器の無意味な行動は単に時間の浪費のみを伴うのみ。
・・・「人生は通りすぎていく」「なにかしなくちゃ」「しっかり働いていい子に」なぜか万事、尻すぼみで情けない。


<作品の解答への鍵、女監督・ヴェラ・ヒティロヴァーのコメント>


この映画のなす意味について考えていた時に、この作品の女監督・ヴェラ・ヒティロヴァーの記事を読んだ。要点として、

『戦争に対する恐怖心を一番強く抱いている。また人間の愚かさ、不寛容さへの恐怖を持っており、映画という手段でそれらと戦いつづけているらしい。保守主義に苛立ち、おしつけがましい態度、愚かさ、怠けもの根性は男たちがちつくりあげたと感じ、彼女が男社会をつよく批判する要素となっているとのこと。
映画自身の秘密として、映像表現の独自性は部分的な構造の中の対立や対照で第三の意味を語ることである。この対立や対照の方法をできるだけ積極的に利用していきたい。すると、二つの意味がぶつかりあい第三の意味が生じる・・・』
そうな・・・何とも難しい。本作品に出演している少女達以上に頭の悪い自分には到底理解できん・・・。
しかし、次に重要なコメントが・・・
創造は誇張がなければあり得ません。・・・誇張は多様ですが、大切なのはその限度を見つけることです。」

確かに!・・・これで本作品の的を得たり!


<アナーキーへの憧憬と『自由と責任』>


この監督の言葉通りに、日常生活の常識を超越しSFチックに創造された映像も多々ある。映像のように大立ち回りをし、徹底した欲望への憧れを持つ事があってもおかしくない。しかし、監督の意図通り、自由な意思から創造された少女達の行動が行き過ぎ=誇張と思われる状態に達すると必ず歯止めをかけ限度を認識=見つけさせている。
単にマナー・道徳概念の問題ではなく、彼女達の傍若無人な行動も度が過ぎれば、法により制限=規制は存在する。これは旧共産圏だけでなく、現在の民主化されたチェコ(スロバキア)でもそうであろう。民主国家はどこも法治国家となるのであり、自由と責任は分離することはできない
享受し得る権利の自由は、自己欲望とも履き違えられないし、無政府主義(アナキズム)は幻想でしかありえないのだ
そう、この映画は道徳的規範・・・文化・宗教・政治体制に基づかない普遍性のある道徳とは何かを考える為の映画なのであろう。


<ここまでくれば少女達の不明だった・・・言葉も!>


「なぜ<愛する>という代わりに<卵>といえないの」
「踏みにじられたサラダだけを可哀相と思わない人に捧げる」
別に<卵>と言うおかしな言動の人物がいてもいい。意味のない「踏みにじったサラダ」・・・を作るそういう変わった人もいて然るべき。無価値で窮屈な倫理概念に行動を抑制され、無作威に摘発される社会より、多少(というよりダイブ)、頭のネジが緩んでいる自分のような人間が生きられる社会の方がいいに決まっている。

『ただし人様に迷惑をかけず、自分でまいた種は自分で刈り取れ!』


しかし、結論としては・・・自分にとってはこの映画より免許センターの交通安全喚起のフィルムの方がよほど社会生活で役に立つことは未来永劫、間違いないだろう。

見ざる聞かざる目撃者 ・・・ チャレンジングパーソン


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【映画鑑賞日記 No.012】
『見ざる聞かざる目撃者』 
…1989年 【アメリカ】
[原題: SEE NO EVIL, HEAR NO EVIL]


<中古VHSが¥1で販売?>


映画コミュ関係の「好きなコメディ(お笑い)・ムービー」系でこの作品があがっているのを良く見かけた為、鑑賞した作品。
Amazonで中古VHSが¥1で売られていた。何だ、この値段は!人気は無いのか・・・

路上で聾者デイヴ(ジーン・ワイルダー)と全盲者ウォーリー(リチャード・プライヤー)が出会う。デイヴの経営するドラッグ・ストアで殺人事件が発生する。その場に居合わせたデイヴとウォーリーは誤認逮捕される。真犯人は別におり、ある事情があって、その犯人のイヴ(ジョアン・セヴェランス)とキルゴ(ケヴィン・スペイシー)が二人の釈放に図る。
警察からの脱出に成功した二人は真犯人より事件の真相を把握し・・・
「見ざる聞かざる目撃者」の二人にウォーリーの妹・アデルが加わり、共に真犯人の捕獲に挑むが・・・。真犯人のアジトにはボスのサザーランドがおり・・・彼もウォーリーと同じ全盲者であった。そして・・・大混乱の犯人逮捕劇が開始する。


<ハンディキャップがハンディ>


感想としては話のテンポも良く、クスリと微笑ましく笑えるシーンがあり退屈せずに
ラストまで楽しめた。身障者二人が主人公といっても明るい映画だ。
途中で二人がお互いの障害をなじり合って口論する場面もあるが、肩が凝らずに無邪気な気持ちで楽しめる。
コメディ映画としては、そこそこの部類に入るのではないか。

マイナス・ポイントとして気になった箇所は
・演出が過剰・露骨なシーンが少なからず(見苦しい!)あること。
・唐突な下品なセリフが多い。(医師会での会見等)
・鼻をつまみたくなる低レベルなギャグも混在していること。
そして、やはりこの作品で評価を押し下げる理由は---これがハンディか?
・ハンディを抱えた二人が健常者を演じるシーンを含め、身障者をネタ(ギャグ)にしていいのか・・・という脚本に対する批評。道徳・倫理感の問題の壁が・・・
加えると、人種差別ネタ?・・・のセリフもあるのはマイナスか。


<チャレンジパーソン>


しかし、今は欧米では障害を持たれている方を「Challenge Person=チャレンジ・パーソン」と呼ぶようだ。
すると、困難に屈服せずに犯人を仕留めた二人は真に「チャレンジパーソン」と呼ぶに相応しいではないか。

盲人のウォーリーが路上で盲人を手を取って誘導するシーンも笑えたが、

心に残ったのは公園でのデイブへの彼の言葉。

「俺には何も見えない。それで決めたんだ。」
「怒り(障害を抱えている)で人生を無駄にするのはよそうと。目が見えようと見えまいと。」
「それまで通りの明るいバカでいようやってね。」
<人にバカにされたくない。(障害が分かることを)とても恐れている>デイブを勇気つける。


そして、最後の公園での会話。
「障害者の気分は?もう一度聞きたいね。」「私は障害者じゃない。君がいる!」


この後のアイス・クリームのギャグ・シーンは露骨過ぎ・見え見えで苦笑したが、
二人の友情は永遠に続く---と締めくくっている。
そう、この出会いで二人は障害以上の尊いものを手にしたのだ。


この力強いセリフを聞くと、題材が身障者ハンディだからって嫌悪して鑑賞を避ける必要はない、

という想いが一瞬過ぎったが・・・
イヤ、現実の障害はこの映画のように甘いものではないのだろう。
だから、「ハンディ」だの「チャレンジ」やれ「バリアフリー」だ!という言葉が存在するのだろう。

どんなに言葉を変えても存在すること自体が障壁があることを認識している証拠だ。
現実の世界ではまだまだ健常者と障害者の間には大きな壁がありそうだ。

魚と寝る女 ・・・魚はマグロ男だった!



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【映画鑑賞日記 No.011】
『魚と寝る女』 
…2000年 【韓国】
[原題: THE ISLE]


<独特の環境の中でサイレント・ムービー?>


釣り堀の女管理人はヒジンという名前。夜は釣り客相手の娼婦もしている。
ある日、浮気をした恋人を殺してしまった男、ヒョンシクが自殺の場所を求め、
その釣り掘にやってきた。二人の関係は肉体関係を持つまで発展する。
しかし、ヒジンのヒョンシクに対する愛情はエスカレートし、

ヒョンシクが買った娼婦・その斡旋業者の男性まで殺害してしまう。
二人共、殺人者としての運命を背負うが、重圧に耐えかねたヒョンシクは釣り掘からの脱出を図る。

しかしヒジンの狂気にまで昇華した激情はヒョンシクを抑えこんで・・・

話的にはで相思相愛の場面もあるが、男に対する女の愛情(激情)の果てを描写したラブ・ストーリー。
この舞台設定が面白い。舞台は周辺を山?で隔てられてた湖か、あるいは入り江なのか・・・

水面には釣り小屋船が点在し浮かんでいる。この小屋船を「島」と見立て、作品名が付けられたのだろうか?
この独創的---独特な閉塞空間の制限内でで登場人物が動きが、ストーリーを完結させる。
無駄なセリフ・音楽を一切排除していて静かだ。これぞサイレント・ムービー?!
この世の不幸を背負ったような絶えず仏頂面の主人公(ヒジン)と

殺害の罪で絶望の淵にいる男・ヒョンシクの表情が面白い。
特にヒジンはA・カウリスマキ作品に出てくるカティ・オウティネンをふてくせらせて「ガン」を飛ばし、

「ヤンキー仕様」にした印象だ。


<女心は解らず(泣)>


ヒョンシクが釣りをしている時に、鏡で顔に太陽光を当てからかった時の

ヒジンのクスっと笑った顔が印象的であった。
この世と隔離し、女性である事を忘れたようなこのヒジンにもヒョンシクとの出会いから、

女心が芽生えたのだろうか?彼の自殺を止めた事に始まり、ヒョンシクに気付かれずに釣り糸に餌をつけたり、彼が飼っている鳥に餌をあげたり・・・

あの手・この手で男心を引こうとしている姿が恋する女性を彷彿させいじらしい。
しかしヒョンシクが娼婦ヒジンの体を求めた時は拒む、金払って求める客はOKなのに
---えっ、好きな人だからこそダメなの。。。この女心が全く・・・解らず。


<「魚と寝る女」のシーン出た━(゚∀゚)━!!!!! >


警察のボートが釣り掘にやって来た時、ヒョンシクは釣り針の束を飲み込み自殺を図るが、愛するヒジンは捜索をかわし、彼を救う。
その後、二人は初めて結ばれる。
体位的にヒジンがヒョンシクの上(股間)にまたがり、男は無抵抗で仰向けで寝転んだまま。
まさに、邦題通り・・・「マグロ(=魚)と寝る女」のシーン。
そう、魚の正体はマグロだったのだ。
しかし、この時が二人の相愛のピークとなるとは・・・


<擬態?いや擬魚法? >


この映画、しばしば人間を魚に見立た演出を見せる。ここも独創的ではあるが・・・
上記の釣り針の束を飲み込み自殺を図るシーン、釣り針を性器にひっかけヒョンシクが

逃亡を食い止めるシーン。
「半身のみ、そぎ落とされ食べられてから、水に戻されもがき泳ぐ魚の姿」・・・ターニング・ポイントか?

ヒョンシクはヒジンに囚われの身となり、この魚のような自分の未来図を投影したのだろうか?

ヒョンシクのヒジンに対する気持ちはヒジンから離れていく。


<評価は?区分は・・・最後で「メルヘン映画」? >


風光明媚で印象的な舞台、女性の激情と比してサスペンス・官能的には薄味だった。
途中で愛犬を虐待する絵は女の「狂気」を写したかったのか?

あるいは独創性に凝り過ぎて監督自身が迷走したのか、未だに不明不明。
ボートが最後に急発進するシーンは殺人犯の警察からの逃亡だけでなく、

この映画自体の終始がつかない方向に向かうのか・・・と心配したが、

最後のシーンで上手く締めてくれた。というよりうけた(爆)


水草の中に裸で入り込み、その中を彷徨うヒョンシク、しかしその部分がアップで映し出されると

・・・女性・ヒジンの性器(土手!)だった。そうヒョンシクが囚われている場所は陰毛の中なのだ。
ヒジンは遂にヒョンシクを自身の性器に宿らせる程、愛情を昇華させたのだ。
なんてファンタジーを超えてメルヘン的な映像!
う~ん。ある感想でも述べられていたが「メルヘン映画」だな。これは。


<映画ではないが・・・>


この映画見て、ジョージ秋山氏の漫画、『フィッシュ・ラ-ゲ』を思い出した。
本映画よりこの漫画の方が官能的で、ストーリーの骨格もしっかりして、言いたいことが率直に伝わっていた

(愛情も良く表現されていたと思う)・・・記憶がある。
今度、漫画喫茶行く機会があったら読み返してみよう。
(あまりメジャーな漫画でなく置いてあるかどうかが心配の種だが・・・)

現金に手を出すな  [ギャバン?適役は某・汚沢豚だろ]


YUUYAの徒然なる映画鑑賞

【映画鑑賞日記 No.010】
『現金に手を出すな』
 
…1954年 【フランス】
[原題: TOUCHEZ PAS AU GRISBI ]


<ギャングもの?いや、男の友情物語>


鑑賞前に頭脳戦・心理戦を主体にした「ギャング映画」とのイメージがあったが、

当てがハズレて主体は「男同士の友情・義理」を描いた映画であった。
引退を考えていたギャング(主人公はマックス)が、5千万フランの金塊強奪に成功する。
しかし一味の男一人(リトン)がクラブで情夫持ちのある女にその旨を喋ってしまう。
その情夫が新興ギャングの麻薬密売のボス(アンジェロ)で2組のギャングの闘争が開始される。
「リトン」はその新興ギャングに押さえられ、盗んだ5千万フランと引き換えに身柄を渡すという条件の電話が「マックス」にかかって来る。


『金vs友情の第1R』・・・「マックス」は大金を捨て、友人「リトン」を救う決心をする。
指定された金塊と身柄の引渡し場所でギャング同士の銃撃戦が始り、「マックス」達は
新興ギャングの一掃に成功し、金塊取り戻しにも成功する。


『金vs友情の第2R』・・・しかし「リトン」は重症を負い、警官隊の追跡に会って再度、「マックス」は金塊を捨てるか、『友人=リトン』を救うかの選択に迫られ・・・
ここでも友情を選択する「マックス」。しかし、救出された「リトン」の命は・・・


<迫力が無く・・・光る「老醜」のギャグ>


平坦なストーリーでギャング同士の射撃戦のシーンも迫力が無い。終わり方もあっけない。

哀愁が漂わせて終わっているだろ、と反論されればそれまでだが・・・
しかも、マックス率いるギャングが「5千万フランの金塊強奪」に成功する場面は、全く描写せず。
そのくせ、無駄と思える場面が多いが、シーン・シーンでは「ある意味」で楽しませてくれる。
出だしから、マックスが隠居生活・老いの自覚を口にするなど、黄昏た「老臭」を漂わせている。
マックスが我々の顔は「キャベツ(=皺だらけ)」だ!・・・と言ったシーンに大爆笑。
凡庸な会話の中で放たれた、「老醜」のギャグに拍手!
「ラスク」の食べ方も話題になっているようだが、音楽が素晴らしかった事には同意。
主題歌=「グリスビーのブルース(LE GRISBI)」のハーモニカの音色・旋律は印象に残った。


<老害か? もし、汚沢豚だったら・・・>


しかし、初めの老化自覚→引退のセリフを引きづるられた為か、暴力シーンまでも迫力がなかった。
連続ビンタは猪木の闘魂注入ビンタ一発の方がよほど迫力があるし、

何よりもギャング映画の範疇に入れるのであれば、主役の適役は他にいるだろう。

ジャン・ギャバンより現政界の某・民主党、某・汚沢豚を主役にした方が遥かにギャングっぽいし

(いやそのものか?)、ルックスいいし、胡散臭い現金(げんなま)いっぱい持ってるし、

迫力ある豪顔だし、老いても、未だに求心力もあるもんね・・・本当、ピッタリだな。

あっ、この製作年度では彼はまだ・・・出演は無理か。


<あとがき --- 豆知識>


「げんなま」の正しい漢字の当て字は「現生」らしい。

「現金」=「げんなま」はヤクザ絡みのスラングらしい・・・定かでない。
映画の原作はパリの暗黒街出身のアルベール・シモナン著で映画と同タイトル。

日本語訳書籍も出ているとのこと。映画は原作と比して相当、省いた箇所が多いとのことだが・・・

蜘蛛女のキス … 原作に焦がれて



YUUYAの徒然なる映画鑑賞

【映画鑑賞日記 No.009】
『蜘蛛女のキス』
 
…1985年 【ブラジル/アメリカ】
[原題: KISS OF THE SPIDER WOMAN]


<出会た・・・感動作、良作に 原作者の功労を労って>


久々に良作に出会えて、気分が揚々。
自分の好きな映画のBEST-20に入るかと言われると、「?」だが・・・。
脚本、映像、キャスティング・その演技力・・・全て申し分ない。
この感動の源泉はその原作の素晴らしさから辿られるのだろうか?
(原作を読んでいない為、想像の域を出ないが・・・)
原作者=『マヌエル・プイグ』・・・・・アルゼンチン生まれの映画少年が昂じて、

映画監督をめざしイタリアのチネチッタへ留学。助監督まで務めたが挫折し、小説家に転向。
本作の原作は、5作目の長編作品(1976年発表)とのこと。
小説家として成功を収めた彼が実は映画が好きで、その道(映画監督)を諦めたが
巡って映画に貢献を果たした・・・というのは「蜘蛛の糸」が映画の神様に手繰り寄せられたのだろうか?


<二人は平行線を辿る?・・・徐々にコントラスト比が縮まる!>


「殺風景な監房」、が主役2人のメイン舞台。
投獄理由も政治活動・・・革命運動と猥褻罪・・・同性愛の罪という設定。
その容姿だけで無く、生い立ち・思想・性格・行動様式・・・同室ながら共有するものが無く、

全ての点で断絶された溝のような二人の関係が牢獄という閉塞空間に描かれる。
獄中でモリーナがヴァレンティンに映画(キャット・ピープル)を語る。
煩わしく映画話を聞かされるヴァレンティンは日々、反政府活動を共にした同士を気にする日々・・・。
モリーナが語る映画のシーンの区切り、そして牢獄での二人の生活=現実に移す頃合がいい。

ここぞというタイミングで切り替え、牢獄での苦渋の生活・アクシデント。
それを乗り越える度に溝が埋まり、同化して行く・・・。

その背景にはモリーナが話す映画の内容も、現実の世界に交わる。
しかし、語られた映画の世界と牢獄での二人の関係が錯乱せずに繋がりが持たれている描写がいい。
二人の絆を決定的にしたのは毒を盛られ腹痛による、ヴァレンティンの排泄物をモリーナが

懸命に処理する行為だったように思う。・・・自分には感動のシーンだったが、
「同性愛者」のシーンもそうだが、一般人的見地からすると、アブノーマル的な行為に

感動の山が来ている点は負の評価として作用するのであろうか?


<再び、二人は交錯し・・・入れ替る?>


ヴァレンティンは同じ監獄に政治運動のリーダー、アメリコ博士が拷問を受け死を遂げたのを目前にし、

自分の運命を悟ったのだろう。モリーナもまた、それを感づいた筈だ。
モリーナは人生のクライマックスの前に・・・痺れるセリフ!
「さようなら、ママ。自分の人生にけじめをつける時がきたの。」
モリーナはヴァレンティンの意思を継ぎ、「死」以外に道が残されていない取引に向かう。

ヴァレンティンは残された牢獄で拷問のあげくモルヒネを打たれて・・・二人共、壮絶なフィナーレ。


しかし、モリーナが「政治活動=反体制」という『現実の世界』、一方、ヴァレンティンは
モルヒネを打たれ「海辺で愛する人とボートに乗り」=『夢の世界』で幕を閉じる、という
お互いの理想としていた生き方が入れ替わっているのが面白い。
ここでもヴァレンティンのセリフに痺れる! 「モリーナは?・・・」


<考え出された一人三役>


よくこんな配役考えたよな。
ソニア・ブランカに一人三役配役を与える。メイク・装飾こそ異なれ、

その三役が同一人物だと解るように絵を写す。
(1)映画話の中の「キャット・ピープル」中の歌手・蜘蛛女

(2)現実世界でヴァレンティンがかつて愛した女性---現体制の政治家と癒着する資本家の娘、

(3)そして、ヴァレンティンの最後の夢の中で出てくる女性。
これで、物語も現実も夢の世界も一本の太い糸で繋がる。
欲を言うと「蜘蛛女」のシーンが短く、二人が投獄されるまでのプロセスが描かれていれば・・・

と思ったのは個人的なお節介か(笑)


<そして、未だ見ぬ原作は・・・>


この映画、ミュージカルとしても上映され、好評だったとのこと。
すると、未だ見ぬ原作は・・・この映画より面白いとの評判を「ちらほら」耳にする。
これだけ無駄を省き、重厚な映画を上回るという原作は一体、どのような内容なのであろうか?

そして「キャット・ピープル」、これも見てみたくなった。

リメイク版(1981年公開)ではなくあくまで原作(1942年版)で。

二人の運命と照らし合わせ、モリーナはイレーナ派・政治犯のバレンティノはアリス派と配役されているらしい。モリーナが語った部分が多々(?)あるだろうが・・・