試合が終わったあとも、護の耳にはミットの音が残っていた。
乾いた、重い音。
三球。
たった三球だけだった。
それなのに、片付けのためにグラウンドへ出ても、ベンチへ戻っても、ボール入れを運んでいても、あの音だけが耳の奥から消えなかった。
「小堅井くん」
後ろから声をかけられて振り向くと、健太郎がいた。
「はい」
「あれ、何やねん」
「何がでしょうか」
「いや、何がやなくて。最後の球や」
「投げました」
「見たらわかるわ」
健太郎は呆れたように言い、それから少し笑った。
「ウチ、外野から見てても変やったで。速すぎて」
横から田松が入ってくる。
「あれは反則やろ」
「反則ではないと思います」
「そういう意味ちゃうねん」
「そうなのですか」
「護くん、真面目に返すなあ」
田松は笑いながらも、まだ少し興奮しているようだった。
少し離れたところで、弘田がスコアブックを抱えたまま言う。
「すごいのは間違いないですけど」
「出た、弘田君の冷静なやつ」
健太郎が言う。
「いや、冷静にならんといけませんやん」
弘田は困ったように肩をすくめる。
「問題は、あれをどう使うかやと思います」
「使う?」
護が聞き返す。
「はい。三球だけなら、相手も驚いて終わります。でも、打者が二巡したらどうなるか。走者を背負ったらどうなるか。変化球や牽制はどうするか」
「……たくさんありますね」
「たくさんあります」
弘田は少しだけ苦笑した。
「だから、すごいんですけど、すごいだけで終わらせたらもったいないと思います」
護は黙ってうなずいた。
ほめられているのか、課題を出されているのか、少しわからない。
たぶん、両方なのだろう。
「でもまあ」
健太郎が言う。
「今日のところは、すごかったでええやろ」
「それは、そうですね」
弘田も素直にうなずいた。
「あの一球目で、東陽のベンチがざわつきましたから」
波多野が眼鏡を押し上げながら近づいてくる。
「一球目で空気が変わりました」
「そうなのですか」
「はい。東陽学園はあまり騒がないチームです。それでも、はっきり反応していました」
「……見ていませんでした」
「でしょうね」
波多野は真面目にうなずく。
「投げている人は、意外と見えないものだと思います」
護は自分の左手を見た。
投げている自分には、相手がどう見ていたのかがわからない。
だからこそ、周囲の言葉が不思議に聞こえる。
「小堅井」
低い声がした。
悟だった。
「はい」
「浮かれるなよ」
「はい」
「でも」
悟は少しだけ間を置く。
「球は、やっぱり本物だな」
「……ありがとうございます」
護が頭を下げると、悟はそれ以上何も言わず、道具の片付けへ戻っていった。
その短さが、逆に重かった。
しばらくして、護は用具倉庫の前で卓二と二人になった。
卓二はキャッチャーミットを持ったまま、指を何度か開いたり閉じたりしている。
「痛むのですか」
「少しね」
「申し訳ありません」
「謝らないでよ」
卓二は苦笑した。
「俺が受けたんだから」
「でも」
「それに、受けられてよかった」
護は卓二を見る。
「怖くなかったのですか」
「怖かったよ」
卓二はすぐに答えた。
護は少し驚いた。
「怖かったのですか」
「うん。ブルペンで受けてないし、試合のマウンドだし、東陽相手だし」
「では、なぜ」
「逃げたくなかったから」
卓二はミットを見下ろした。
「護くんが投げるってなった時、俺が受けるしかないと思った。塩谷先輩が肩作りを受けてくれたけど、試合で受けるのは捕手だから」
「はい」
「怖かったけど、逃げたらたぶん後悔すると思った」
「後悔」
「うん」
卓二は少し笑った。
「それに、俺もチャンスもらってる側だから」
その言葉に、護はスタメン発表の時のことを思い出した。
卓二は正捕手がいないから回ってきた出番だと言われていた。
けれど、それはただの穴埋めではない。
本人にとっては、逃したくない場所なのだ。
「受けてくださって、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
卓二は照れたように言う。
「あんな球、俺だけが受けたって言えるの、ちょっと自慢になるし」
「自慢になるのですか」
「なるよ」
「そうなのですか」
「そうだよ」
卓二は笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「でも、何度も受けるなら、俺ももっと上手くならないと駄目だと思った」
「なぜですか」
「護くんの球、捕るだけなら何とかなる。でも試合で使うなら、それだけじゃ足りない」
「弘田先輩も同じようなことを言っていました」
「たぶん、みんな思ってる」
卓二はミットを握り直す。
「護くんは、すごい。でも、まだ投手としてはこれからなんだと思う」
護は黙った。
それは自分でも少しわかる。
一人を三振に取った。
だが、それだけだ。
牽制も、クイックも、配球も、走者を背負った時のことも、何も知らない。
野球入門書に書いてあった文字が、急に自分に迫ってくるようだった。
片付けが終わる頃、龍と史子がベンチ前で話していた。
護が近づくと、史子がこちらを見る。
「小堅井君」
「はい」
「今日はお疲れさま」
「ありがとうございます」
「三球、よかったわ」
「はい」
「でも、これからね」
史子の言い方は穏やかだったが、甘くはなかった。
「これから、ですか」
「そう。あの球があるなら、ちゃんと使えるようにしないといけない」
「はい」
「ただ速い球を投げるだけなら、相手もいずれ慣れるわ」
「慣れる」
「ええ。特にいいチームほど、対応してくる」
東陽学園のベンチのざわつき。
上岡の目。
福岡の笑った顔。
護はそれを思い出した。
たしかに、次も同じように通じるとは限らない。
龍が静かに言う。
「あの球は武器になる」
「はい」
「でも、まだ投手ではない」
「……はい」
その言葉は、思っていたより強く響いた。
否定ではない。
むしろ、認めたうえで先を示している言葉だった。
「投げるだけなら、できる」
龍は続ける。
「でも試合で投げるなら、覚えることがある。走者。カウント。打者。守備。捕手。全部つながってる」
「はい」
「少しずつでいい」
「はい」
「でも、やるならちゃんとやろう」
護はうなずいた。
「はい」
その返事は、自然に出た。
その日の帰り道、清は少しだけ歩く速度を落として、護の隣に並んだ。
「今日はすごかったね」
「何度も言われています」
「それだけすごかったってこと」
「そうでしょうか」
「そうです」
清は少し笑った。
「でも、護くん、あんまり嬉しそうじゃないね」
「嬉しくないわけではありません」
「じゃあ、どういう感じ?」
「よくわかりません」
「そっか」
「ただ」
護は少し考えた。
「一人を三振に取っただけなのに、いろいろなことを言われました」
「うん」
「すごいとも言われましたし、まだ投手ではないとも言われました」
「うん」
「どちらも、たぶん本当なのだと思います」
清は横で静かに聞いていた。
「護くんらしいね」
「そうでしょうか」
「うん。そこで拗ねないし、浮かれもしない」
「浮かれてよいのですか」
「少しくらいはいいと思うけど」
「では、少しだけ」
「え、今の浮かれてるの?」
「たぶん」
「わかりにくいなあ」
清が笑う。
護も少しだけ口元を緩めた。
夕方の道に、二人の影が伸びている。
野球部に入る前なら、今日の出来事はきっと自分とは関係のない世界だった。
試合も、相手校も、ブルペンも、マウンドも、ベンチの視線も。
けれど今は、そこに自分がいる。
そして、自分の投げた三球が、誰かの中に残った。
「清さん」
「ん?」
「見られるというのは、不思議ですね」
「うん」
「少し、怖いです」
「うん」
「でも」
護は左手を握る。
「嫌ではありませんでした」
清は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「そっか」
それだけ言った。
護は空を見た。
今日の三球で、自分の何かが変わったのかはわからない。
けれど、周囲の見る目は少し変わった。
そして、自分もまた、野球を見る目を少し変えられた気がした。
投げるだけでは足りない。
速いだけでも足りない。
試合の中で投げるには、知らなければならないことが山ほどある。
その広さを、護は初めて本当の意味で感じていた。
初めて投げた三球。
その余韻は、白球の音だけでは終わらなかった。