第八話 三球のあと | ゆうすけくんのてきとーブログ

ゆうすけくんのてきとーブログ

かわいいコーギーのゆうすけくんのお父さんが、
美味しいと思ったもの、趣味
そして、ゆうすけ君との思い出を書いているブログです。

 試合が終わったあとも、護の耳にはミットの音が残っていた。

 乾いた、重い音。

 三球。
 たった三球だけだった。

 それなのに、片付けのためにグラウンドへ出ても、ベンチへ戻っても、ボール入れを運んでいても、あの音だけが耳の奥から消えなかった。

「小堅井くん」

 後ろから声をかけられて振り向くと、健太郎がいた。

「はい」
「あれ、何やねん」
「何がでしょうか」
「いや、何がやなくて。最後の球や」
「投げました」
「見たらわかるわ」
 健太郎は呆れたように言い、それから少し笑った。
「ウチ、外野から見てても変やったで。速すぎて」

 横から田松が入ってくる。

「あれは反則やろ」
「反則ではないと思います」
「そういう意味ちゃうねん」
「そうなのですか」
「護くん、真面目に返すなあ」

 田松は笑いながらも、まだ少し興奮しているようだった。

 少し離れたところで、弘田がスコアブックを抱えたまま言う。

「すごいのは間違いないですけど」
「出た、弘田君の冷静なやつ」
 健太郎が言う。
「いや、冷静にならんといけませんやん」
 弘田は困ったように肩をすくめる。
「問題は、あれをどう使うかやと思います」
「使う?」
 護が聞き返す。
「はい。三球だけなら、相手も驚いて終わります。でも、打者が二巡したらどうなるか。走者を背負ったらどうなるか。変化球や牽制はどうするか」
「……たくさんありますね」
「たくさんあります」
 弘田は少しだけ苦笑した。
「だから、すごいんですけど、すごいだけで終わらせたらもったいないと思います」

 護は黙ってうなずいた。

 ほめられているのか、課題を出されているのか、少しわからない。
 たぶん、両方なのだろう。

「でもまあ」
 健太郎が言う。
「今日のところは、すごかったでええやろ」
「それは、そうですね」
 弘田も素直にうなずいた。
「あの一球目で、東陽のベンチがざわつきましたから」

 波多野が眼鏡を押し上げながら近づいてくる。

「一球目で空気が変わりました」
「そうなのですか」
「はい。東陽学園はあまり騒がないチームです。それでも、はっきり反応していました」
「……見ていませんでした」
「でしょうね」
 波多野は真面目にうなずく。
「投げている人は、意外と見えないものだと思います」

 護は自分の左手を見た。

 投げている自分には、相手がどう見ていたのかがわからない。
 だからこそ、周囲の言葉が不思議に聞こえる。

「小堅井」

 低い声がした。

 悟だった。

「はい」
「浮かれるなよ」
「はい」
「でも」
 悟は少しだけ間を置く。
「球は、やっぱり本物だな」
「……ありがとうございます」

 護が頭を下げると、悟はそれ以上何も言わず、道具の片付けへ戻っていった。

 その短さが、逆に重かった。

 しばらくして、護は用具倉庫の前で卓二と二人になった。

 卓二はキャッチャーミットを持ったまま、指を何度か開いたり閉じたりしている。

「痛むのですか」
「少しね」
「申し訳ありません」
「謝らないでよ」
 卓二は苦笑した。
「俺が受けたんだから」
「でも」
「それに、受けられてよかった」

 護は卓二を見る。

「怖くなかったのですか」
「怖かったよ」
 卓二はすぐに答えた。

 護は少し驚いた。

「怖かったのですか」
「うん。ブルペンで受けてないし、試合のマウンドだし、東陽相手だし」
「では、なぜ」
「逃げたくなかったから」

 卓二はミットを見下ろした。

「護くんが投げるってなった時、俺が受けるしかないと思った。塩谷先輩が肩作りを受けてくれたけど、試合で受けるのは捕手だから」
「はい」
「怖かったけど、逃げたらたぶん後悔すると思った」
「後悔」
「うん」
 卓二は少し笑った。
「それに、俺もチャンスもらってる側だから」

 その言葉に、護はスタメン発表の時のことを思い出した。

 卓二は正捕手がいないから回ってきた出番だと言われていた。
 けれど、それはただの穴埋めではない。

 本人にとっては、逃したくない場所なのだ。

「受けてくださって、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
 卓二は照れたように言う。
「あんな球、俺だけが受けたって言えるの、ちょっと自慢になるし」
「自慢になるのですか」
「なるよ」
「そうなのですか」
「そうだよ」

 卓二は笑ったあと、少し真面目な顔になった。

「でも、何度も受けるなら、俺ももっと上手くならないと駄目だと思った」
「なぜですか」
「護くんの球、捕るだけなら何とかなる。でも試合で使うなら、それだけじゃ足りない」
「弘田先輩も同じようなことを言っていました」
「たぶん、みんな思ってる」
 卓二はミットを握り直す。
「護くんは、すごい。でも、まだ投手としてはこれからなんだと思う」

 護は黙った。

 それは自分でも少しわかる。
 一人を三振に取った。
 だが、それだけだ。

 牽制も、クイックも、配球も、走者を背負った時のことも、何も知らない。

 野球入門書に書いてあった文字が、急に自分に迫ってくるようだった。

 片付けが終わる頃、龍と史子がベンチ前で話していた。

 護が近づくと、史子がこちらを見る。

「小堅井君」
「はい」
「今日はお疲れさま」
「ありがとうございます」
「三球、よかったわ」
「はい」
「でも、これからね」

 史子の言い方は穏やかだったが、甘くはなかった。

「これから、ですか」
「そう。あの球があるなら、ちゃんと使えるようにしないといけない」
「はい」
「ただ速い球を投げるだけなら、相手もいずれ慣れるわ」
「慣れる」
「ええ。特にいいチームほど、対応してくる」

 東陽学園のベンチのざわつき。
 上岡の目。
 福岡の笑った顔。

 護はそれを思い出した。

 たしかに、次も同じように通じるとは限らない。

 龍が静かに言う。

「あの球は武器になる」
「はい」
「でも、まだ投手ではない」
「……はい」

 その言葉は、思っていたより強く響いた。

 否定ではない。
 むしろ、認めたうえで先を示している言葉だった。

「投げるだけなら、できる」
 龍は続ける。
「でも試合で投げるなら、覚えることがある。走者。カウント。打者。守備。捕手。全部つながってる」
「はい」
「少しずつでいい」
「はい」
「でも、やるならちゃんとやろう」

 護はうなずいた。

「はい」

 その返事は、自然に出た。

 その日の帰り道、清は少しだけ歩く速度を落として、護の隣に並んだ。

「今日はすごかったね」
「何度も言われています」
「それだけすごかったってこと」
「そうでしょうか」
「そうです」

 清は少し笑った。

「でも、護くん、あんまり嬉しそうじゃないね」
「嬉しくないわけではありません」
「じゃあ、どういう感じ?」
「よくわかりません」
「そっか」
「ただ」
 護は少し考えた。
「一人を三振に取っただけなのに、いろいろなことを言われました」
「うん」
「すごいとも言われましたし、まだ投手ではないとも言われました」
「うん」
「どちらも、たぶん本当なのだと思います」

 清は横で静かに聞いていた。

「護くんらしいね」
「そうでしょうか」
「うん。そこで拗ねないし、浮かれもしない」
「浮かれてよいのですか」
「少しくらいはいいと思うけど」
「では、少しだけ」
「え、今の浮かれてるの?」
「たぶん」
「わかりにくいなあ」

 清が笑う。
 護も少しだけ口元を緩めた。

 夕方の道に、二人の影が伸びている。

 野球部に入る前なら、今日の出来事はきっと自分とは関係のない世界だった。
 試合も、相手校も、ブルペンも、マウンドも、ベンチの視線も。

 けれど今は、そこに自分がいる。

 そして、自分の投げた三球が、誰かの中に残った。

「清さん」
「ん?」
「見られるというのは、不思議ですね」
「うん」
「少し、怖いです」
「うん」
「でも」
 護は左手を握る。
「嫌ではありませんでした」

 清は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

「そっか」

 それだけ言った。

 護は空を見た。

 今日の三球で、自分の何かが変わったのかはわからない。
 けれど、周囲の見る目は少し変わった。

 そして、自分もまた、野球を見る目を少し変えられた気がした。

 投げるだけでは足りない。
 速いだけでも足りない。
 試合の中で投げるには、知らなければならないことが山ほどある。

 その広さを、護は初めて本当の意味で感じていた。

 初めて投げた三球。

 その余韻は、白球の音だけでは終わらなかった。