鎌倉時代、
2度め元寇 / 弘安の役 (1281年) が起きていました。
翌年の1282年、
… 円覚とは →
仏教用語で『どんな人も円 (まる) く覚 (さと / 悟) る』との意味で、元寇の戦死者を『敵味方』関係なく弔う菩提寺になっていたようです。
円覚寺の開基者は北条時宗、開山者は無学祖元。
その円覚寺 (禅寺) ができたと同じ年、
時宗と呼ばれる宗派を開いた一遍上人が鎌倉の町に入ろうとしていました。
一遍は寺をもたづ、遊行僧として全国各地を旅し、行く先々で民衆に念仏札を配って念仏を勧めました。やがて一遍や信者たちの唱える念仏は「踊り念仏」という形に高まってゆきました。
一遍の一行が鎌倉の町に入ろうとした時
⇔ 鎌倉幕府の執権・
北条時宗は一遍の一行を
立入禁止しました。
名前は似ているけど
北条
時宗 (
ときむね) は
時宗 (じしゅう) の
一遍上人を
立入禁止。
どんな人でも円 (まる) く覚 (さと / 悟) る寺を開いていましたが ⇔ 一遍の一行を立入禁止していた事になります。
武家政権 (幕府) が公家政権 (朝廷) を上回ろうとしていた時代で、まだまだ「民衆政治」は成立していません。
一遍上人は日本の
「民衆政治」と
『断捨離ブーム』の先駆者と云われています。
*捨離は仏教用語?
―?→
(・・? どうして?
北条
時宗 (
ときむね) は
時宗 (じしゅう) の一遍一行を
立入禁止したのか? 理由は2つ見られ。1つは『
民制』
2つは「
王制」に結び付く可能性があったように思います。
一遍上人の出家前の名前は「河野通秀 (みちひで) 」といい、伊予国・河野通広 (みちひろ) の子であるという。
1221年
後鳥羽上皇は鎌倉幕府から政権を取り戻そうと、朝廷 (京方) と幕府 (鎌方) の合戦・
承久の乱を起こしました。
結果、幕府側が勝利。
その乱とき、一遍
の祖・河野一族 (河野水軍) は朝廷側に付き、祖父の河野通信 (みちのぶ) が陸奥国江刺郡に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。
一遍が生まれたのは伊予国で、伯父が配流された信濃国で念仏踊りを始め → 各地を歩き廻ります。 → 祖父が配流された陸奥国 → ・・ → 播磨国 → 亡くなったのは摂津国。その間に、熊野の地で『夢告』を受けます。
一遍は熊野信仰を再興した人と知られ。その熊野信仰には、日本には八百万 (たくさん) の神様がいるけど ⇔ 神様の本当の姿は仏様で、仏様が神様 (仮の姿) として権現する。と教えがありました。
↑そうした教えは
本地垂迹 (ほんちすいじゃく) 説と呼ばれ、鎌倉時代の政治 (宗教) 体制になっていたようです。
⇔ その反対に ⇔
円覚寺ができた前年の
元寇 / 弘安の役 (1281年) 時代ころ、本地垂迹説に対抗する ⇔
反本地垂迹説 (
神国思想) が芽生えた時代でもありました。
もとは自然崇拝的で農耕儀礼などに結びつく素朴な信仰に根差す観念だったが、対外的な緊張状態や国内の政治的な統一意識が高まると・・? という風に記載されていました。
ー↓ー↓ー
⇔
反本地垂迹説 (
神国思想) は『
神道の中に
仏教』。
鎌倉時代
も南北朝時代
も室町時代
も戦国時代
も江戸時代
も明治時代
も 時の権力社による
神格化の政治があった。そのもとは素朴な信仰だけど政治的な緊張が高まる時代に本当は百 (たくさん) の神さまを
一つの神様に見せる政治があったと云われています。
日本の政治は古代から非常に複雑で、
後鳥羽上皇 (
王制) の念を背負っていた
一遍上人 (
民制) ⇔
北条時宗 (
幕制)
そのどちらにも
政治 (宗教) がある事を考えて見ました。
ほかにも、
王制の中にも院政 (上皇政治)・親政 (天皇政治)・寺政 (法皇政治) など。非常に複雑な政治が見られます。
あくまでも
*そのどちらが正しいと事はありませんが、
後鳥羽上皇 (
王制) の念を背負っていた
一遍上人 (
民制) においても
とても不思議に思う点が見てみました。
醍醐天皇の第2皇子・
空也上人は
浄土教と
民衆救済を普及させた人物で
、鉢叩 (はちたたき) をして念仏踊りを行い。茶筅を作る竹細工職人とも縁あると云われています。 ↓↑
鉢叩 ≒ 茶筅
『
空也上人の
浄土教・法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗・
一遍上人の
時宗』は
民衆救済を党是とする
浄土的な宗派で、時の権力社はそのエネルギーを「
利用して
封印する』政治があったようです。
*ほかにも天主教や法華宗も民衆救済を党是に。
ー↓ー↓ー
1207年
後鳥羽上皇によって
法然の門弟4人が死罪とされ、
法然及び
親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。
従来その処断理由について、法然や親鸞などによる念仏衆が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧であると解釈されてきた。
↓↑
後ほど
1221年
承久の乱で敗れた
後鳥羽上皇は隠岐島に流され、その地で亡くなったと云われています
ー
ー
*→
そしてそれは、
宗教的な
説話かもしれませんが
、後鳥羽上皇は
念仏衆を
弾圧したけど
最期は
念仏衆に支えられた? という
説話も見られます。
そして → 浄土真宗の僧侶になった嘉念坊善俊がおり。嘉念坊善俊は美濃国の白川郷に浄土真宗を普及させた伝説上の人物と云われています。
後鳥羽上皇と
浄土的な
念仏衆の間に政治的な変化があったのか?
法華宗の日蓮も
後鳥羽上皇の御落胤? という伝説もあったようです。
戦国時代ころ
念仏衆と
法華衆と
天主教は
犬猿の仲 ありましたが、その3宗は
民衆救済を党是としていたので時の権力社はそのエネルギーを「
利用して
封印する』政治があったようです。
1207年
後鳥羽上皇によって
法然の門弟4人が死罪とされ、
法然及び
親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件。
従来その処断理由について、法然や親鸞などによる念仏衆が国家体制を揺るがしかねないとして、朝廷及び朝廷と結びつきの強い旧仏教教団による念仏宗の弾圧であると解釈されてきた。
↓↑
浄土宗の
法然は
土佐国 浄土真宗の
親鸞は
越の国に配流され、
法然と
親鸞は
後鳥羽上皇を猛烈に批判していたようです。
後ほど
1221年
承久の乱で敗れた
後鳥羽上皇は
隠岐島に流され、その地で亡くなったと云われています
その以前、
土御門天皇は
承久の乱に参加していなかったので処罰の対象になっていませんでしたが、父親と異母弟が遠流であるのに自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て
土佐国に配流を希望したと云われています。
土佐国と越の国? 隠岐島?佐渡島?
あの事と関連しているのか? 思う事がありました。
土佐国は
法然と
土御門天皇の配流地であると同時に
崎門学の源泉地でもあったようです。
土佐国や越の国は崎門学派の人々が多く見られる事が気になりました。
妙心寺
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%BF%83%E5%AF%BA
南村梅軒
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%91%E6%A2%85%E8%BB%92
土佐南学 / 海南学派
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AD%A6
谷時中
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%99%82%E4%B8%AD
山崎闇斎
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E
ー?→
詳しくは解りませんが、
ー(・・? ー?→
明治維新は大内氏と毛利氏の代理戦争?
儒学と浄土的な宗派は相反する1面を持つけど、何らかの関連性? 感じました。
(・・? 越の国は浄土的な宗派が流行した時代がありました?
(・・; またもや ;
大変な誤解を招くブログになっておりますが;
崎門学と浄土的な宗派は相反する1面を持つけど どんな人も。という類似の何かがあったように思えて来ました。そして この度載せた本の
思想には
賛同できませんが、『なるほど』思う点があり気になりました。
―→