首里城の色 その2
朝鮮半島は高麗 (こうらい) の時代。
しだいに、
中国大陸を支配した「元」が『高麗』にも進入して来るようになると、これまでの文班 (文臣政権) から 武班 (武臣政権) へ政権運営が以降し、文班 > 武班の関係から武班 > 文班の関係に逆転しました。
それ以来『高麗』は「元」の従属国となり、日本にも進入して行きます。
鎌倉時代、2度の元寇には「元の人」よりも⇔「元」に国を奪われた『宋の人と高麗人』が多く乗っていました。また、高麗人どうしでも『内紛』がありました。
… 高麗王朝の →
*別抄は臨時軍
当初は、夜間の盗賊取締りをする「夜別抄」に起源をもつ臨時組織であったが、続発する反乱により半ば常備軍化し、左別抄 と 右別抄の2部隊となり、後ほど 元 (蒙古族) の捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて『三別抄』と呼称されるようになった。
崔氏政権 (武班) のもとで拡大され、 元 (蒙古族) との戦いの際には「官兵」の役割もしていたようです。
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1271年5月
高麗の賊兵・三別抄は、高麗・元の連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)という。蒙古襲来とも。
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[ 三別抄の乱 ]
1270年、高麗における元の支配に対して起こった反発運動。高麗の賊兵・三別抄は、もとは武臣政権 (武班) の臨時軍であったが、文臣政権 (文班) が 元 に服属したことに対して反乱を起こし、民衆の支持のもと珍島、済州島を拠点に高麗の官兵に反発し続けました。
1271年5月に高麗の賊兵となった三別抄は、高麗と元の連合軍に追い詰められ、1273年に朝鮮半島の南の珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。その翌年の1274年、元軍は高麗軍を動員して日本遠征 (文永の役 / 元寇) に向かった。
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平成9年、
沖縄県浦添市の伊祖城跡、浦添城跡から「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った瓦が出土し、世間の人々を驚かせました!それだけでなく、高麗瓦の工場窯跡まで発掘されました。これまで、板葺きだと見られた伊祖城、浦添城の上には『板』ではなく『瓦』が乗っていた可能性がある驚くべき出土でありました。
今では信じられませんが、
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中山国 (琉球国) の王統は、
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古琉球の都 = 浦添城 (黒い瓦) ⇔ 近世琉球の都 = 首里城 (赤い瓦) 。
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1271年 (英祖12年) 5月、
朝鮮半島の南では、高麗・元の連合軍の攻撃を受けた高麗の賊兵・三別抄の根拠地だった珍島と済州島が陥落するという出来事がありました。
『三別抄』の根拠地だった珍島と済州島が陥落した年のわずか2年後になります。
1度目の文永の役(1274年)、2度目の弘安の役(1281年)という元寇 (蒙古襲来) が起きていました。
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20世紀後半に、沖縄県浦添市浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる。
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沖縄言葉では、
「お茶碗」の事を『まかい』というのだが、どうやらその語源は高麗由来とも云われています。
*お茶碗 = まかい
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ー ウチナーと沖縄 ー
沖縄 (おきなわ) の方言名は沖縄 (ウチナー) になっていますが、「沖縄」という文字よりも『ウチナー』という言葉の方が古く、琉球の時代から琉球の人々は自分の国の事を『ウチナー』と呼んでおり、江戸時代の儒学者・新井白石が『ウチナー』の音を「沖縄」という当て字にしたと云われています。
… 沖縄語では →
「庭 (にわ) 」の事を『庭 (ナー) 』と言います。