第4回 神と鬼の不思議関係 | お試しブログ

第4回 神と鬼の不思議関係

今年 / 2017年10月ころ、
今上天皇と美智子皇后がプライベートで高麗 (こま) 神社を訪れ‥ とマスコミ報道があり、net 上でも話題になりました。

(・・;) net 上には ;
危険と隣り合わせの1文も載っていましたが、それは何かの『暗示』である? と、話題になっていました。

その話題を見ているうちに 突如として、気になる事を思い出し、その事について考えて見ました。



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ー↓気になる事↓ー

高麗神社は、海から遠く離れた武蔵国の山の中にありました。

高麗 (こま / 高句麗) は扶余 (プヨ) 族 ≒ 駒人 (コマぴと) がルーツと云われています。

高麗神社の回りを見ると、日高市猿田 とか、日向日和田山など‥『海色』をした地名が複数見られ、さらに見渡すと飯能、秩父、比企 (祖は日置) など『日置族 (もと海部族)』らしき地名が見られます。
海神 (ワタツミ) ← 海の古語は倭太 ≒ 和田。

ー?→

古代日本には、日置部という祭祀的な職業部があり、

祭祀に使用する埴輪 (はにわ) を作ったのも日置族だと云われ、日置 (ひおき / へき / ひき) は『火起』にも通じ、後ほど 祭祀的な土器集団、軍事的な鉄器集団、鉱山氏族などに派生して行きます。
*祭祀と軍事は密接な関係

日置の里。あるいは日置部に縁ある地名には、比企、豊浦、久米、佐伯、阿多。多氏 (鉱山族) から派生した大炊 → 大飯、飯能、飯田などが云われ。武蔵国には比企郡もあり、日置 → 比企。日置の里である事が思われます。

ー・→

日本にやって来た高麗人 ≒ 駒人 (コマぴと) を道案内 / 先導したのは、

鼻の尖った猿田彦 (もと海部族) で 「道案内の神」 とも云われ、猿田彦の近くには日置族 (もと海部族) にちなんだ地名が多く見られました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12097825613.html

猿田彦の別名は佐太彦で、猿田彦 (佐太彦) にちなんだ名前として、鹿児島県の佐多岬、

愛媛県の佐田岬。など、


鼻の尖ったような岬に見られます。

猿田彦 (佐太彦) は「もと海部族」と云われ、古代の久米部 (南方出身の防人) には、もと海部族の阿多族 ≒ 日置族 が多くいたようです。

伊予国には、古代豪族・久米氏や越智氏といった『もと海部族 ≒ 日置族』の「名残 / 地名」がたくさん見られ、伊予国の今治市 (旧・越智村) には大山祗神社があり、

大山祗神の娘の名前が「木花佐久姫」→ またの名は『阿多津姫』といい、阿多は安太、吾田、阿陀、安田 (あだ) とも関係あると云われています。

(・・?  日置族 ≒ 阿多族です。
古代の日向 → 日高 → 日立 → 東へ → 海人は阿多 (アタ / 鵜) が『常世の国』へ‥ と、信仰がありました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11994656910.htm 


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内容は飛んでいますが、
 気になる事とは、山の中に「海色」した地名が見られる事、高麗人 ≒ 駒人 (コマぴと) を道案内 / 先導したのは海人の可能性が高い事です。
*海色と駒色が隣接している事

ー?→

似たような組合わせが、

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12065802909.html 信濃国にも見られました。

ー?→

しだいに、 気になる事 は「海色と駒色」が隣接している事 →『霊的な物と軍的な物』が密接な関係にあるように思えて来ました。



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少しマニアックな お話になりますが、

「霊的な物と軍的な物」は『エロ的』でした。


https://ameblo.jp/yuukata/entry-12326085389.html 


米軍基地や原発の里、ダムの底に沈む村など。偶然とは思えないほど、


エロ的 (霊的と軍的) な物を封印しています。


その考えを強く持っていたのは古代の海部族 → 後ほど日置族 / 日置部 → 久米部と佐伯部に通じ、日置の里は原発の里に通じていました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12238484749.html

しだいに、

伊武部 (いんぶ) は忌部 (いんべ) と関係しているでは? 思えて来ました。


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(・・;) もう一度 ;
武蔵国の山の中に「海色と駒色」地名が隣接している事 → 古代から『霊的な物と軍的な物』は密接な関係があった事を踏まえて、さらに気になる事が出て来ました。

 ー↓さらに気になる事↓ー

net 情報によると、 
716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系遺民1799人を武蔵国の一部に移したことにより高麗郡として設置されたのが最初である。

設置時の郡域は現在の日高市と飯能市の一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。『倭名類聚抄』には高麗郷 (日高市の1部) ・上総郷 (飯能市の1部) の二郷の名が記されている。郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/高麗郡

その net 情報によると、 
716年 高麗郡の中に『高麗郷と上総郷』の2つ村があった?‥ と、いう1文が載っていました。
*武蔵国に上総国の人が移住していた。

ー?→

むかし房総半島に『総の国』があり、後ほど下総国と上総国に分別し、さらに 718年に上総国より安房国 (あわ / あは) が分立。

総の国』の語源は諸説ありますが、麻の古語 → 総 (ふさ) と説があります。

今とは印象が異なりますが、昔の東国は北関東が「都会」で ⇔ 南関東が『田舎』であったようです。
むかし東国の北関東 (都会) には、毛野国 (上野国と下野国) 、科野国 (信濃国)  、常陸国があり ⇔ 南関東 (田舎) の武蔵国と総の国が しだいに、都市化して行ったようです。

むかし武蔵国の国府 (中心地) があった所が、

いま府中市になっており、白糸村、染屋村、布田村、調布など‥  糸 / 布生産が盛んであったという。

武蔵国多磨村 → 北多摩郡 → 染屋村と白糸村は府中市 、武蔵国多磨村 → 北多摩郡 → 布田村 → 調布市 に。そのほか、東京都港区麻布 、東京都世田谷区砧、川崎市麻生区柿生、多摩市、福生市 ← 総 (ふさ) ?  など‥ 糸 / 布生産の「名残 / 地名」ようにも思われます。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12063297628.html

ー?→

古くから麻績部 (麻糸生産) が盛んな地域は『毛野国 (上野国と下野国) と科野国 (しなのくに / 信濃国)  』でした。

https://ameblo.jp/yuukata/entry-12005381787.html 麻績部 (麻糸生産) が盛んな地域 → 毛野国 (けぬこく) と  科野国 (しなのくに) から『阿波国』に麻糸が運ばれていたようです。
*阿波国には忌部氏が住んでいました。


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(・・;) 再び ; 内容は飛んでいますが ;
『祭祀』儀礼を行う阿波国の忌部氏が、より良い麻 (ふさ / 総) を求めて →『 総 (ふさ ≒ 麻) の国』に移住して、総の国 → 上総国 → 安房国に‥? と説もあります。
*麻の古語は総 (ふさ) 

総の国 → 上総国の人々が武蔵国に移住していました。

ー?→

ヤマト朝廷の主導豪族は、葛城族 (賀茂氏など) →  大伴氏 → 物部氏 → 蘇我氏 → 藤原氏 → 続いています →
前半は海色 → 後半は駒色

蘇我氏のもと『祭祀』儀礼を行う忌部氏は「粟 (アワ / 穀物) と麻布」に関する仕事をしており。その中に「麁服 (あらたえ)」という大嘗祭に使用する麻布があったようです。

忌部氏に「光 (スポッ) ト 」すると、
「海色と駒色」が隣接している事、『霊的な物と軍的な物』が密接な関係にあった事。気になる謎が見えるような気がして来ました。



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武蔵 (ムサシ) 国は、現在の埼玉県、東京都、川崎市の1部に面していた国で、その武蔵国の語源も諸説あり、ハッキリ解っていないといいます。

少数説として、
武蔵国の語源は、古代朝鮮語の 「苧種子 (モ・シシ) 」 が →『武蔵 (ムサシ) 』と訛化したという説もある。*少数説ですが、歴史家の鳥居龍蔵氏も、その説をとっています。

ー?→

古くは麻糸は租税の対象として生産され、麻糸の原料には「麻 (お)」 と『苧 (カラムシ)』の2種があり、 今でいうと「麻 (お)」は大麻 (たいま) ⇔『苧 (カラムシ)』は苧麻 (ちょま) を意味していました。
*苧 (カラムシ) の種 →  「苧種子 (モ・シシ) 」 が →『武蔵 (ムサシ) 』と訛化した説。


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総の国 → 下総国には、

犬吠埼 (いぬぼうさき) と岬がありました。

その犬吠埼 (いぬぼうさき) 語源も諸説あり、ハッキリ解っていないけど、通説では「兄の源頼朝 (よりとも) から追われていた弟の源義経 (よしつね) は、奥州 (東北地方) に向かう際に下総国に犬を置いて行き、その後亡くなります。待ちわびた犬が主人を思い吠えたので犬吠埼 (いぬぼうさき) と地名に‥ 」と云われています。

犬吠埼 (いぬぼうさき) → 下総国の回りを見渡すと? その通説は後世に加えられた お話のように思いました。その通説には犬が「北方を気にしている」様子が見えます。

犬吠埼 (いぬぼうさき) の回りを見渡すと? 
常陸国の鹿島神宮と下総国の香取神宮と お社があり、古代に両社は「北方を気にする」役割をしていたようです。

(・・? もしも?
犬が「北方を気にしていた」とすると?

犬祖伝説と関係しているでは? 思えて来ました。

ー?→

中村明蔵氏の「隼人と律令国家」によると、682年に大隅隼人と阿多隼人が貢物を持って都へ赴き、飛鳥寺の西にもてなされた。とある。

古代のヤマト朝廷 (中央政府) に対して反発する者は「熊襲 (クマソ) 」⇔ 服従した者は『隼人 (ハヤト) 』と呼んでいた。との文献もあれば、時代によつて、北部九州に住む反発する人を熊襲 (クマソ) と呼ぶ場合も見られます。

隼人の語源にも諸説あり、隼 (ハヤブサ) のように早い人、南風 (はえ / ハヤ) の人。などが云われ、むかし南九州一帯 (主に宮崎県と鹿児島県辺り) に日向 (ひむかい) の国があり、その地方出身者を隼人族と指す事が多く。8世紀の大宝律令などの史料には、6年交代で南九州から上京する「朝貢隼人」と畿内の各地に移住させた「移配隼人」がおり、種々の祭祀儀礼に奉仕したり、彼らを統治するために衛門府のもとに隼人司を設置していたといいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/隼人

また、6年交代で上京する「朝貢隼人」は、新しく来た人 →『今来隼人』とも呼ばれていたようです。

9世紀に入ると、朝貢隼人 (今来隼人) の朝貢儀礼は終了し、都で行う諸儀式には畿内の各地に移住させた「移配隼人」の子孫が行うようになったと云われています。

「移配隼人」のうち、阿多隼人は大和国宇智郡阿陀郷 (いま五條市) に、大隅隼人は山城国綴喜郡大住郷 (いま京田辺市) に多く住んでいたといいます。

そのほか、
近江国栗太郡竜門郷 (いま大津市) 、
河内国若江郡萱振郷 (いま八尾市) 、
丹波国桑田郡佐伯郷 (いま亀岡市) 。
など。

隼人族が行う仕事は「霊的な物と軍的な物」が多く、中でも『犬の吠声 (はいせい) 』という呪術的な儀礼があったと云われています。

そうした呪術的な『犬の吠声 (はいせい) 』儀礼の起源は、猿田彦 (佐太彦) にあったという。

猿田彦とは何か? 猿? というよりも天狗のように見える。

(・・? どうして猿何か ?

(・・;) 猿田彦について調べても詳しく解りませんでしたが ; net 上では、記紀神話の天孫降臨に登場する先導神 (男神) で、天宇受売命 (アメノウズメ) を妻とした? 猿田彦は先住民? との情報が多くあり。猿田彦は天狗のお面をして、背中に羽根が生えている絵をよく見かけます。

ー?→

ある方のブログによると、
猿田彦は「犬」であった? という。
*猿田彦 ≒ 天狗 → 天の狗 (いぬ / 犬) ?

また、猿田彦は「畏怖の神」とも云われ、昔はオリエントのライオンであったが → 中国大陸で架空の動物・獅子となり → 日本では、山の犬 ≒ 狼 (オオカミ / 大神) になった? という。
*ライオン → 獅子 → 犬

(・・? 猿田彦は、天の犬? 山の犬? 
西日本には、猿田彦 (佐太彦) を表現する岬 (みさき) が3つあったという。

ー・→

むかし四国の高知県にも『さた岬』があり、

熊野信仰の1種で、常世の国 ≒ 桃源郷を目指す「補陀落 (ふだらく) 渡海」が流行し、高知県の『さた岬』はその出発地になっていました。

ある日、
師匠は遅れた弟子を残して『さた岬』を出発し、『補陀落 (ふだらく) 渡海』に出かけました。

 ⇔

(・・;) 遅刻をして『さた岬』にやって来た弟子は、『自分も行きたかった‥』と、たいそう悔しがり、地面を蹴飛ばし足を摺合 (すりあ) わせました。

それ以来、

高知県の『さた岬』は →『足摺 (あしずり) 岬』と呼ばれるようになったという。

(・・? やはり?
猿田彦 (佐太彦) は狗 (いぬ / 犬) の鼻を表現しているのか?


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ところで、常陸国の鹿島神宮と下総国の香取神宮の両社は、鹿をトーテムとする お社で、鹿をいじめると重い処罰が課されたといいます。

 ⇔ ところが?

諏訪大社の「御頭祭 (おんとうさい) 」では、
カゼ 鹿を殺める儀式があるといいます。

ー?→

 ー 日本神話によると ー
むかし、出雲族の大国主 (オオクニぬし) が日本島を支配していました。

ある日、高天原 (たかまがはら) から天孫族がやって来ました。
*天孫降臨

天孫族の天照大神 (アマテラスかみ) は、これまで日本島を支配していた大国主 (オオクニぬし) に『国譲り』を迫ります。
*出雲の国譲り

国譲りを迫られた大国主は「息子たちに問うてから‥ 」と、返答を一時保留しました。

大国主の子には、兄の事代主 (コトシロぬし)
 がおり、兄の事代主は「国譲りしてもいいヨ♪」と答えて釣りを始めまた。

 ⇔ 一方、

弟の建名方は国譲りを断固拒否します。

後日、
高天原から派遣された建御雷 (タケミカヅチ) が、建名方 (タケミナカタ) を倒しにやって来ました。
*相撲の始まり?

そこで、
建御雷 (タケミカヅチ) と 建名方 (タケミナカタ) は相撲をして、建名方は敗れます。

敗者の建名方 (タケミナカタ) は科野国 (しなのくに / 信濃国) の諏訪地方に逃げ延び、勝者の建御雷 (タケミカヅチ) は常陸国の鹿嶋地方に住まいました。

そのため、
信濃国の諏訪社は建名方 (タケミナカタ) を祭神とし、常陸国の鹿嶋社は建御雷 (タケミカヅチ) を祭神にするようになった。と云われています。

天孫族は天津神 (降臨の神) 、出雲族は国津神 (土着の神) と云われています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/天津神・国津神

天孫降臨の後 → 西から東へ → 天孫族 (天津神) を道案内したのが国津神の猿田彦 (佐太彦) であったといいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/天孫降臨


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猿田彦 (佐太彦) ≒ 天の狗 (いぬ / 犬) は敗者の神? 勝者の神は鹿 (プヨ) の神? 
*ツングース語で「プヨ (鹿) 」

駒人は鹿 (プヨ) をトーテムとし、海人は蛇 (ナガ / 長) をトーテムとしていました。

常陸国には「那珂」など、海色した地名があります。 蛇 (ヘビ) の事を長、那珂、那賀 ⇔ 海蛇の事を宇賀、宇嘉、宇加など‥ 地名が日本列島にはあるといい、古代の海部族は、日陰 (ひかげ) ~ 日向 (ひなた / ひむか) を目指し → さらに東へ → 日高を目指し → 日立を目指し → 常世の国 → 常陸国で鵜飼いをしたと云われています。

例えば、日向国に那珂郡があり、紀伊国に那珂郡と日高郡があり、さらに常陸国の那珂川の下流には、阿多可奈湖 (あたかなのみなと) が阿多という。

信濃国に逃げて来た出雲神・建名方 (タケミナカタ) は、南九州では「南方 (ミナカタ) 」と呼ばれ、阿波国名方郡の「名方」も 信濃国の建御方 と関係しているといいます。

阿波国には、

阿波国那賀郡と阿波国名方郡があり、そのとなりは阿波国麻植郡で、麻の祭祀に関する古代豪族・忌部氏の拠点であったという。

阿波国の1部の忌部氏が「より良い麻 (ふさ / 総) を求めて総の国に移住した? 

ー?→

そしてもしも? 

犬吠埼 (いぬぼうさき) の語源が通説とは異なり、猿田彦 ≒ 天の狗 (いぬ / 犬) と関係しているとすると?

常陸国にも総の国にも「駒色と海色」が隣接しているようにも見えて来ました。
*勝者と敗者の‥ ?

北方を気にしていた。
*夷を以て夷を征す仕組み? 

ー?→

「駒色と海色」が隣接している事と『霊的な物と軍的な物』が密接な関係にあった事。について、忌部氏に「光 (スポッ) ト 」すると? 何かが見えるように思えて来ました。

忌部氏の子孫である斎部広成は、古語拾遺を編纂したようです。