追悼 野村啓司さん・笠谷幸生さん | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

時期的に書くのが遅くなってしまいましたが、残念な訃報が相次いで届きました…。

 

アナウンサーの野村啓司さんが亡くなられました。

関西にその名を轟かせた人気アナウンサーでした。京都市の出身で関西学院大学時代は放送部に所属する一方でアナウンサー養成学校「生田教室」でアナウンス技術を学び、大学卒業後の昭和46年に毎日放送に入社した。確かな仕切り・語り口と紳士的な風貌で同局のテレビ・ラジオ番組で関西を中心に活躍するようになり、1980年代に入ると昭和55年放送開始の情報番組『八木治郎ショー・いい朝8時』(昭和58年の八木さんの死去により以降は『すてきな出逢い いい朝8時』に改題)の進行役や『クイズ‼ひらめきパスワード』の司会と全国ネットの番組に登場し全国的にもその名を知られる事となった。

その後平成13年にアナウンサー室長に就任、平成17年にラジオ専任局長となりアナウンサー室を離れるもラジオパーソナリティーなどの声の仕事も続け、平成20年に定年退職後も毎日放送の専属パーソナリティーを経てフリーとなりラジオ番組を主に活動していた。

関東生まれの関東育ちの私としてはこの方といえば前述の『いい朝8時』『クイズ‼ひらめきパスワード』となる、どこかスマートな感じの語り口が懐かしく思い出されるのだ。あとこの方は関西ローカルの深夜の歌番組『乾杯!トークそんぐ』の司会も務めていたのだが平成12年までの放送で、その頃の私は既に大阪旅行に行くようになったのでホテルのテレビで1・2回は見ていたので一応は間に合った事にはなるが、出来れば関東で放送して欲しかったな…。

しかし令和に入るか入らないかのあたりから体調不良の状態となり、令和3年に2時間半の長時間ラジオ番組『Hit&Hit!』を降板し、その後は身体にあまり負担がかからない最高でも1時間までの放送時間の短い番組での担当に絞ったが体調不良の状態が続き、今年3月にラジオ番組『人生という宝物』(15分番組)を降板し療養に専念する事を明かしていた。

子供の頃から見てきた人だけに残念な事であります…。

 

元スキージャンプ選手の笠谷幸生さんも亡くなられました。肺を長く患った末の虚血性心疾患だったそうです…。

言うまでもなく冬季オリンピック初の日本人金メダリストでした。北海道仁木町の出身で、子供の頃に遊びでジャンプを始めるようになったのが始まりで、余市高校に入学後はあらゆる大会の少年組で勝ち続け海外遠征もこなすようになり、卒業直前の昭和38年2月のSTV杯ジャンプ大会で日本人2人目の100mジャンパーとなり日本を代表するジャンパーとなった。

同年明治大学に入学し、翌昭和39年にインスブルックオリンピック(冬季)に初の五輪選手として出場。昭和42年に大学卒業後ニッカウヰスキーに入社(当初は総本山である地元の余市工場に勤務)、入社後も選手を続け翌昭和43年にはグルノーブルオリンピックに出場を果たしたが2大会ともメダルに届かなかった。

しかし昭和45年のノルディックスキー世界選手権70m級で銀メダルを獲得した事で次の札幌オリンピックへの期待が高まり、昭和47年にその札幌オリンピックの70m級で1回目に84mを出した事が大きく功を奏し冬季オリンピック初の日本人金メダリストとなった。そして今野昭次が銀メダル・青地清二が銅メダルを獲得し表彰台を日本人が独占し「日の丸飛行隊」と讃えられた。

その後も選手を続け、更に4年後の昭和51年のインスブルックオリンピックで4度目の五輪出場を果たしたが同年に現役を引退した。

札幌オリンピックの時は私は生まれてなかったので当然リアルタイムでは見ていない。しかし冬季オリンピック初の日本人金メダリストとしてこの方の名は頭に入っていたし、結構前の話になるが(単発ではあるが)この方の金メダル獲得を取り扱った漫画がありましてそれを見た覚えがあります。

現役引退後はオーストリアに留学しコーチ学を学び帰国後は強化コーチとしてジャンプ選手の育成・強化に努め、コーチ退任後は国際審判員の資格を取り世界のあらゆるジャンプ競技の審判員を務めた。その一方でニッカウヰスキー社員としてはその知名度から「歩く広告塔」として札幌や東京のクラブ・バーを渡り歩いて自社製品の宣伝に努め、東京本社広報部長を経て最終的には北海道支社副支社長となり平成11年に退社。その後平成30年には文化功労者に選ばれた。

この方の死により「日の丸飛行隊」は全てこの世からいなくなってしまいました…、本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌