こんにちは。






前回のブログはこちら。

















葬式坊主という言葉がある。



お葬式が出来ない人は
お坊さんではない。




四苦八苦を解決するために
お釈迦様がご苦労された。


いかに生きるかという
命題に答えを出した。



しかし、
葬式、法事と亡くなった人にしか
向き合っていないと思われている。





亡くなった人に成仏していただく。



曹洞宗の教えに従えば
必ず成仏できるという信念がある。







お釈迦様の教え、

学者の先生の研究によると


僧侶は
一般の人たち、在家の
葬式に関わらなくていいと
言われている。








では
残された人たちの苦しみは?








(こういった解釈の違いは)
お釈迦様の教えが【葬儀】と
間違って訳されてしまったことによる。



本来は
セレモニー的な意味合い。



葬儀社の役割である。











禅は
生きる事に焦点。


いかに生きるか?という命題。




生まれてきたら
必ず死ぬから。







いただいた命
お預かりしている命


自分のものではない。







死がなかったら、
いかに生きるかを考えなかっただろう。



 



他の生き物は
死を怖れることはあっても
考えることはできない。



死を見つめ
死を考えるのは人間だけ。





自分は死んだことはないけど
人の死を見つめる。(死なれる)











お釈迦様に
四頭の馬の例えがある。






いい馬は鞭があたる前に走る。
これは全く見ず知らずの人。

次にいい馬は
鞭があたるかあたらないかで
走り出す。これはちょっと知ってる人。


鞭があたって走る。
身近な人の死。


鞭を打たれて打たれて
骨の髄まで鞭があたって
やっと走る。自分の死。


これは愚か。






大切な人を亡くした時は
自分の死のように感じる。









仏教において
どう生きるか?

の問いにお葬式が大切。









その人の死は
自分にとってどんな意味があるのかを
考える。





どんなにお粗末でも
自分の答えを出す事が大切。

人の考えは借物だから。













比丘、比丘尼(びく、びくに)
優婆塞、優婆夷(うばそく、うばい)






みんなで仏様の教えを学んで、
伝えていく。









死ぬ時に
いい人生だったと振り返られるように
日常を生きる。















日々の一つ一つを丁寧に生きる。









その積み重ねが人生。