2019春の富山10 万葉歴史館 | 楢丁(YOUTEI) 旅の話

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趣味で書きためた旅日記が、膨大な量になりました。2020秋に脳出血、2023には食道癌を発症と、様々なことが起こりますが、克服してまた旅に出たいという気持ちは変わりません。
お付き合い頂けたらありがたいです。どうぞよろしく。

2019.4/1~6 春の富山 その10
万葉歴史館

4/3(水)④
 さっき、最初に導かれた祠の地点から丘の上に見えたのが、櫓のような構造物だ。あれは何だったろうと、それらしいところに向かってみれば、初めに現れたのが「伏木北前船資料館」。名前が示すとおり、往時の雰囲気をそのまま残す歴史的建造物、ここは寒そうだな、という想像が先に立ち、古民家を利用した、その資料館に入ろうという気持ちにはならなかった。暖房も何もない寺の中をスリッパでさんざん歩き回って、すっかり足が冷えていたからだ、無理もない。


                   伏木北前船資料館。寒そうに思え、入らなかった

 この建物の屋根には、確かに物見のようなものが建ってはいるが、下から見えたそれは、明らかに違うデザインの建造物だった。

 資料館の駐車場には、付近の観光案内図があり、これで確認すると、「気象資料館」があり、きっとそれだろうと想像されたが、この寒空の下、これから歩いて行く気にもなれなかった。

 地図上にもう一つ発見されたのが、万葉歴史館だった。車で向かえば僅かな距離、さっき車の中で聞いていたラジオでここの館長さんがしゃべっていたのが思い出され、じゃあ、行ってみようかということになった。我々の頭の中には、間違いなく、これは鉄筋コンクリート造りの近代的な建物、暖房もしっかり効いている、という想像があったはずだ。

 

                    万葉歴史館は想像したとおり、鉄筋コンクリート造

 もうすでに時刻は16時をとっくに回り、普通に考えれば閉館間近、という頃合いだが、万葉歴史館の駐車場には、まだキャパの7割ほどの車が停まっている。なるほど「令和」の影響だ、ということがすぐに察せられたが、早速典拠となった資料の特別展示をするという反応の早さ、これには脱帽の思いだ。


                           大伴家持と坂上大嬢像

 予想に反し、ここは18時まで開館していた。カウンターで入場券を買い、展示室に向かうと、廊下の手前に「堅香子」の文字とともに「カタクリ」の写真がパネルになり、現在中庭に咲いている、との案内がある。

 

                                「堅香子」って?

 

 なるほど中庭に出てみれば、斜面一面にカタクリが花をつけているところだった。通常のより少し大きいようにも思えたが、普段我々が目にするのは、牛沢や飯能あたりの山の斜面にかろうじて残った程度のものだから、本場のものと比較するのはどうかとも思われた。

 

                            カタクリは大きく見えた

 館内に戻ると、「令和」を菅官房長官が発表したときと同じように令和の筆文字(ワープロフォントだが)パネルと、マイクなどが用意された、記念撮影用の場所があった。30年前、当時の小渕官房長官が「平成」の筆文字を掲げた図は、頭の中に映像として焼き付いているが、関心が薄いせいもあり、今回の菅の場面はまだ映像で見ていない。まあ、こんな感じだろうかというポーズを取って何枚かカメラに収めた。


                                「令和」コーナー

 すると、その傍らにいたテレビの取材クルーから声を掛けられ、今回、「令和」が発表されたが、なぜここに来たか、というようなインタビューをされた。背が高くスリムな、美形のお姉さんからマイクを向けられ、いささか戸惑ったのは事実で、「令和は万葉集から選ばれたということだが、元はといえばおそらく王羲之の蘭亭序が影響を与えている、あまり日本独自の、という言い方を強調するのはどうかと思う」などと、些か理屈っぽいことをしゃべってしまった。明日の「めざましテレビ」で放送するかもしれません、とカメラマンが言い置いてクルーは去って行ったが、インタビューの途中からディレクターさんに話しかけられ、この人と会話のやりとりをするような場面もあったので、まず、本番の放送で使われることはないだろうと思っていた。


 展示は万葉集の成り立ちやら、越の国で詠まれた歌などの紹介が主体。初めの展示室から廊下に出ると、数人のおばさま方が、ガラス越しに庭の梅の木を愛でている。我々もそれにつられて写真を撮っていたら、当時の梅はまだ白梅しかなく、紅梅は平安期以降に中国から入ってきたんですよ、と中西進の文庫本万葉集を携えた、詳しそうなお婆さんに話しかけられた。


                             万葉歴史館の庭園

 元はここの職員だったというこの人、本当に万葉集が好き、という感じがよく表れていた。こちらから質問をし、それに答える形で館内の展示物を見て回ったが、丁度いいボランティアガイドさんに巡り会ったという形だった。越の国で詠まれた歌は337首、一番古い写本は桂本万葉、「筑紫歌壇」という言い方もほとんど馴染みがなく、あれ、何のことだっけと思ったが、要は万葉集のうち、大伴旅人、山上憶良らが活躍した、筑紫地方で詠まれた歌を指すのだ。




 「では、万葉集が国家的事業として編纂されたことの政治的意味とはどんなところにあったのでしょうね」と聞いてみると、虚を突かれたような感じで、全く答えが返ってこなかったが、これは仕方がない。この人は純粋に万葉集が「好き」なだけなのだろう。

 日本書紀となれば、ヤマトを天皇が統治する正当性を示すことを目的としたものである、というのはすぐに思い浮かぶ。古事記のほうはちょっとずれる気もするが、似たようなものだろうと思うが、かつて、支配にいたる土地の権利関係などを詳細に示した文書である、という説に触れたこともある。

 で、万葉集だ。中国に「詩経」があるように、あるいは我が国の言語文化が現在どの程度に達しているかを示す、ということでも考えてのことかも知れない。圧倒的な文化的圧力を持つ、唐王朝に対抗する意識が生まれて奮発したとしても、不思議ではなかろう。

 防人歌や東歌など、庶民の詠んだものが相当程度含まれているわけだが、そこから考えられる当時の人々の識字水準がどの程度だったか、というような研究はあるのだろうか。まだ「かな」が確立する以前の段階で、一般にどの程度文字を使用した言語活動が行われていたかは、全く想像出来ないが、そのような疑問に答える展示がないのはしかし、無理もないことだろう。

 いささか横道にそれた。


                           万葉集研究史のパネル

 章湖は、平安中期にはすでに、万葉集をどう読むかが分からなくなっていたことを、初めて知ったと言ったが、それを知っただけでもここに来た甲斐があった、というものだ。一口に「万葉仮名」と言っても、その用法は複雑で、とても簡単に読めるものではなく、長きにわたるその研究の歴史も示されていた。

 もう1300年ほども前、大伴家持が越の国の国司だったことから作られたこの万葉歴史館、研究施設としての機能も持っているということだが、一過性のブームではなく、日常的に多くの人が訪れるようになってほしいものだ。

 帰りにミュージアムショップに寄ったが、ここにあったネクタイの図柄が面白く、章湖に選んでもらい、一本購入。色使いも中々にセンスのいいもので、さんざん迷った挙げ句のことだった。
                     
 昨日、ホテル1階の片隅に電子レンジがあるのを発見した。些かわびしい話だが、スーパーで仕入れた惣菜を暖められるだけでも、食事の気分は違うものだ。特に、桜の季節としては異常に寒いこのところの気候にあっては、結構切実な問題。今日はこのあたりに展開するスーパーチェーンの「アルビス」で買い物。


                       この地域に展開するスーパー「アルビス」


※万葉歴史館で受けた、「めざましテレビ」のインタビューは放送に使われたらしい。章湖の知り合いが「映ってたわよ」と連絡をよこして、それと分かったが、多分切り取られて、理屈っぽいしゃべりは割愛されたことだろう。


2019.4/1~6 春の富山 その11 砺波市立美術館につづく