第一人称=私、私たち。第二人称=あなた、あたたたち。第三人称=ほかの人、ほかの人々。
外山滋比古さんがおっしゃるには、これに加えて「第四人称」というのがあるそうです。
今日は、その第四人称の話を紹介します。
昔、イギリスに厳しい取り立てを行う領主がおりました。見かねた領主夫人は、「どうか重税をおやめください。」と歎願をしたところ、領主は「お前が全裸で街中を端から端まで馬にまたがって通り抜けたら願いを叶えてやろう」と言ったそうです。
夫人は、民衆のためにそれに従うことにしました。そのことを伝え聞いた領民は、夫人の恩に報いるため、当日になると、戸を閉じて、裸の夫人を見ないことにしたそうです。
ところが、仕立屋のトムは、夫人の裸を一目見たくてたまらない。そっと戸を開けて、のぞいてしまいました。
天がそれを罰したのでしょうか。「のぞきのトム」は失明してしまいました。
以来、この話は、何百年も伝わる伝説となりました。
確かにトムはよくない。しかし、この「見てはいけないものを見てしまう」というのが人間の性(さが)でもあります。それに目を付けて、人間の原罪のようなものを創作する詩人、物語作家が現れるようになりました。これなら罰せられることがないというわけです。そして、多くのドラマが生み出されました。
劇場でドラマを見る人は、第一人称、第二人称、第三人称で描かれるドラマの世界の外にいます。いわば「第四人称」です。舞台上では悲しきことが、客観ではその舞台の味わいとなります。
外山滋比古さんは、こうまとめます。
悲劇をよろこぶのは、現実では不徳であるが、現実を離脱した第四人称の観客には、ある種の美を伝える。道徳家、哲学者がそれを批判しても、第四人称は、虚構の美をすてることをしない。芸術は、第四人称から生まれると考えることができる。それが、おもしろい、のである。
(外山滋比古、『伝達の整理学』より)
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