正直言うと、私は、村上春樹さんの作品があまり好きではありませんでした。
冗長すぎる比喩のオンパレード。やたらと多い女性関係。捉えどころのない展開・・・。
しかし、今回、『羊をめぐる冒険』、『風の歌を聴け』、そして『1973年のピンボール』と、(執筆順を全く無視して)「鼠三部作(青春三部作)」を読みながら、気が付けば、それらは麻薬のように私の心を引き付けていました。
「あなたがピンボール・マシーンから得るものは殆んど何もない。数値に置き換えられたプライドだけだ。失うものは実にいっぱいある。歴代大統領の銅像が全部建てられるくらいの銅貨と、取り返すことのできぬ貴重な時間だ。」
そんなピンボールに「僕」は、はまっていきます。特に「スペースシップ」と呼ばれるピンボールに。「僕」はその台を「彼女」と呼びます。
彼女は素晴らしかった・・・(略)僕だけが彼女を理解し、彼女だけが僕を理解した。僕がプレイ・ボタンを押すたびに彼女は小気味の良い音を立ててボードに六個のゼロをはじき出し、それから僕に微笑みかけた。
ところがある時、彼女は突然姿を消します。取り壊されたゲーム・センターは、ドーナツ・ショップに姿を変え、彼女の行方は分からず。
そして、僕はピンボールをやめた。しかるべき時がやってきて、誰もがピンボールをやめる。ただそれだけのことだ。
それでも、彼女がどこかで自分を呼んでいると感じる「僕」は、彼女を探します。そして、とうとう出会う。
ゲームはやらないの?と彼女が訊ねる。
やらない、と僕は答える。
何故?
165000、というのが僕のベスト・スコアだった。覚えてる?
覚えてるわ。“私の”ベスト・スコアでもあったんだもの。
それを汚したくないんだ、と僕はいう。
・・・会いに来てくれてありがとう、と彼女は言った。もう会えないかもしれないけど元気でね。
ありがとう、と僕は言う。さようなら。
僕はピンボールの列を抜けて階段を上り、レバー・スイッチを切った。まるで空気が抜けるようにピンボールの電気が消え、完全な沈黙と眠りがあたりを被った。再び倉庫を横切り、階段を上がり、電灯のスイッチを切って扉を後手に閉めるまでの長い時間、僕は後ろを振り向かなかった。一度も振り向かなかった。
なぜ、「ピンボール」という無機質なものとの別れが、こんなにも切なく胸に響いてくるのでしょうか。
それは、この物語は「僕」と彼女との恋愛小説であり、ピンボールは青春の象徴だからではないでしょうか。
ピンボールは、大人から見れば、何の役にも立たない下らないものかもしれません。しかし、それは、間違いなく青春に彩りを与えたものです。
私の中で「比喩」と「ピンボール」が符合しました。どちらも不要なものかもしれないけれど、それがあるがゆえに、そこに一瞬の彩りを与えているのではないか。そんな刹那的な美しさに気付いたことが、私が村上作品に惹かれ始めた理由なのかなと思います。