■三方良し
近江商人の教えに
「三方良し」
というのがあります。
その商売が
・自分に良し
・相手に良し
・世間に良し
となっていることを
大切にする、ということです。
これは勇気についても同様です。
その勇気が
・自分に良し
・相手に良し
・共同体に良し
となっていることが
大切になります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220806/17/yurushino/0d/e5/j/o0640042715156884505.jpg?caw=800)
■適切に使えると”まあるく”なる
アルフレッド・アドラーは
勇気とは
”困難に立ち向かう活力”
であると言っています。
困難で出会ったときに
勇気を使うと
その困難に立ち向かえる、
反対に
勇気を使わないと
その困難を避ける、
ということです。
その困難とは
今の自分が持つ課題であり、
それを克服することで
得られる成果物がある、
ということです。
そのため勇気を使うことは
「良いこと」とされています。
しかし、
その困難の克服で得られる成果物が
「三方良し」であれば
まあるく収まる感じで
”すればするほどしあわせが増える”
となってすばらしいですが、
「三方良し」でない場合は
”する度に誰かが犠牲になる”
となるため、
勇気を使ってはいても
まあるく収まらない感じになります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211218/07/yurushino/fc/29/j/o0640042615047887282.jpg?caw=800)
例えば
一緒に仕事をする仲間の
鼻毛が見えていたとします。
その人がそのままお客さんに会うと
鼻毛が見えて恥ずかしい思いを
するかもしれません。
さらにそれを見たお客さんが
自分たちの職場に対して
「誰も気づかないのか」と
失望してしまうかもしれません。
でも
「鼻毛出てるよ」なんて言うと
相手の怒りを買ってしまうかも
しれません。
伝えようとしても
困難を感じます。
言わない場合は
以下のような感じになるでしょう。
・自分に良し〇
→怒りを買わない、などの
面倒ごとを抱え込まないので
自分は平和にすごせる。
・相手に良し×
→鼻毛に気づけずに
恥ずかしい思いをする。
・世間に良し×
→鼻毛が出てる人が
働いてるところ、と評価される。
お客さんが寛大な人で
「鼻から何か覗いてますよ」
なんて言ってくれる人なら良いですが
お客さんも伝えようとすると
同じような困難を感じるでしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211208/09/yurushino/ce/34/j/o0640034315043250934.jpg?caw=800)
そして、伝える場合です。
困難に感じるのは
自分が伝えたときに
相手が恥ずかしい思いを
”させられた”と思って
自分に怒りを向けてくるかも
しれないことです。
でも、
それはその人の課題であって
自分の課題ではないので
自分は操作できません。
自分が操作できるのは
自分の課題である
「伝えるか、伝えないか」です。
相手も鼻毛が見える状態で
お客さんに会いたくはないでしょう。
そこに寄りそう感じで
誠実に伝えることで
相手の受ける衝撃も
最小限で済みます。
そうした配慮をすれば
伝えることの困難を
乗り越えるのは簡単になります。
・自分に良し〇
→相手の役に立つ自分は
自分の好きな自分。
・相手に良し〇
→言われてイヤだけど
お客さんに見られるよりは
ずっとマシだから、助かる。
・世間に良し〇
→鼻毛を気にせずに
利用できることは
お客さんにも職場にも良いこと。
こんなふうに
勇気を使えると
”すればするほどしあわせが増える”
のです。
アドラーは
こんな使い方を
「生きるのに役立つ道」と
言っています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211130/08/yurushino/4d/93/j/o0640036015039326152.jpg?caw=800)
■犠牲は出ない
勇気を使って
犠牲が出ないのが
「生きるのに役に立つ道」に
進むことです。
誰かに犠牲が出るような
勇気の使い方は
おかしい使い方です。
すなわち
「生きるのに役に立たない道」です。
例えば
接客するときに
お客さんが自分の身体を
触る必要もないのに
触ってくる、なんて場合。
お客さんに触られて
うれしいのなら何も問題ありませんが、
お客さんに触られて
イヤなら、それは自分に犠牲が出ています。
”触られる”という困難に
勇気を使って立ち向かい、
接客が終わるまで我慢すると
次のような感じです。
・自分に良し×
→自分に犠牲が出ている。
・相手に良し〇
→触ると利益があるから
触ってくるので相手限定で〇です。
・世間に良し×
→世間的にダメな行為。
自分の職場としても
それは看過できない行為だけど
自分が言わない限り感知されないので
×だけど、?ともいえます。
?は良いも悪いもないことです。
「自分さえ我慢すれば
お客さんは喜んで
また来てくれるから、
自分は善いことしてる」
なんて思っても
確実に自分には犠牲が出ていて、
それが繰り返される度に
犠牲は重なっていきます。
なので
”触られる”という困難に
勇気を使うのは
間違った使い方です。
この場合は
自分に犠牲を出さない状況を
ととのえることに
勇気を使うべきです。
なので
「お客さんに
自分に身体に触れないように
要請する」とか
「職場の上司に相談する」とかに
勇気を使うことになるでしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211129/09/yurushino/b4/4a/j/o0640042715038840863.jpg?caw=800)
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ9年目、常楽でした。
無理な犠牲を出さない境界
自己犠牲で自分の重要度を高める道は、苦しい
近江商人の教えに
「三方良し」
というのがあります。
その商売が
・自分に良し
・相手に良し
・世間に良し
となっていることを
大切にする、ということです。
これは勇気についても同様です。
その勇気が
・自分に良し
・相手に良し
・共同体に良し
となっていることが
大切になります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220806/17/yurushino/0d/e5/j/o0640042715156884505.jpg?caw=800)
■適切に使えると”まあるく”なる
アルフレッド・アドラーは
勇気とは
”困難に立ち向かう活力”
であると言っています。
困難で出会ったときに
勇気を使うと
その困難に立ち向かえる、
反対に
勇気を使わないと
その困難を避ける、
ということです。
その困難とは
今の自分が持つ課題であり、
それを克服することで
得られる成果物がある、
ということです。
そのため勇気を使うことは
「良いこと」とされています。
しかし、
その困難の克服で得られる成果物が
「三方良し」であれば
まあるく収まる感じで
”すればするほどしあわせが増える”
となってすばらしいですが、
「三方良し」でない場合は
”する度に誰かが犠牲になる”
となるため、
勇気を使ってはいても
まあるく収まらない感じになります。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211218/07/yurushino/fc/29/j/o0640042615047887282.jpg?caw=800)
例えば
一緒に仕事をする仲間の
鼻毛が見えていたとします。
その人がそのままお客さんに会うと
鼻毛が見えて恥ずかしい思いを
するかもしれません。
さらにそれを見たお客さんが
自分たちの職場に対して
「誰も気づかないのか」と
失望してしまうかもしれません。
でも
「鼻毛出てるよ」なんて言うと
相手の怒りを買ってしまうかも
しれません。
伝えようとしても
困難を感じます。
言わない場合は
以下のような感じになるでしょう。
・自分に良し〇
→怒りを買わない、などの
面倒ごとを抱え込まないので
自分は平和にすごせる。
・相手に良し×
→鼻毛に気づけずに
恥ずかしい思いをする。
・世間に良し×
→鼻毛が出てる人が
働いてるところ、と評価される。
お客さんが寛大な人で
「鼻から何か覗いてますよ」
なんて言ってくれる人なら良いですが
お客さんも伝えようとすると
同じような困難を感じるでしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211208/09/yurushino/ce/34/j/o0640034315043250934.jpg?caw=800)
そして、伝える場合です。
困難に感じるのは
自分が伝えたときに
相手が恥ずかしい思いを
”させられた”と思って
自分に怒りを向けてくるかも
しれないことです。
でも、
それはその人の課題であって
自分の課題ではないので
自分は操作できません。
自分が操作できるのは
自分の課題である
「伝えるか、伝えないか」です。
相手も鼻毛が見える状態で
お客さんに会いたくはないでしょう。
そこに寄りそう感じで
誠実に伝えることで
相手の受ける衝撃も
最小限で済みます。
そうした配慮をすれば
伝えることの困難を
乗り越えるのは簡単になります。
・自分に良し〇
→相手の役に立つ自分は
自分の好きな自分。
・相手に良し〇
→言われてイヤだけど
お客さんに見られるよりは
ずっとマシだから、助かる。
・世間に良し〇
→鼻毛を気にせずに
利用できることは
お客さんにも職場にも良いこと。
こんなふうに
勇気を使えると
”すればするほどしあわせが増える”
のです。
アドラーは
こんな使い方を
「生きるのに役立つ道」と
言っています。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211130/08/yurushino/4d/93/j/o0640036015039326152.jpg?caw=800)
■犠牲は出ない
勇気を使って
犠牲が出ないのが
「生きるのに役に立つ道」に
進むことです。
誰かに犠牲が出るような
勇気の使い方は
おかしい使い方です。
すなわち
「生きるのに役に立たない道」です。
例えば
接客するときに
お客さんが自分の身体を
触る必要もないのに
触ってくる、なんて場合。
お客さんに触られて
うれしいのなら何も問題ありませんが、
お客さんに触られて
イヤなら、それは自分に犠牲が出ています。
”触られる”という困難に
勇気を使って立ち向かい、
接客が終わるまで我慢すると
次のような感じです。
・自分に良し×
→自分に犠牲が出ている。
・相手に良し〇
→触ると利益があるから
触ってくるので相手限定で〇です。
・世間に良し×
→世間的にダメな行為。
自分の職場としても
それは看過できない行為だけど
自分が言わない限り感知されないので
×だけど、?ともいえます。
?は良いも悪いもないことです。
「自分さえ我慢すれば
お客さんは喜んで
また来てくれるから、
自分は善いことしてる」
なんて思っても
確実に自分には犠牲が出ていて、
それが繰り返される度に
犠牲は重なっていきます。
なので
”触られる”という困難に
勇気を使うのは
間違った使い方です。
この場合は
自分に犠牲を出さない状況を
ととのえることに
勇気を使うべきです。
なので
「お客さんに
自分に身体に触れないように
要請する」とか
「職場の上司に相談する」とかに
勇気を使うことになるでしょう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20211129/09/yurushino/b4/4a/j/o0640042715038840863.jpg?caw=800)
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ9年目、常楽でした。
無理な犠牲を出さない境界
自己犠牲で自分の重要度を高める道は、苦しい