■3つの定義

宗教の定義は
次の3つが揃っていることです。

①教祖
②聖典
③聖地

どの宗教にもこの3つは共通してます。

一方で、
宗教と称してなくとも
この3つが揃っていると
宗教と見ることもできます。

例えば
①自己啓発のカリスマ的指導者
②その人の著書
③その人が所有してる研修センターなど

またApple社の製品が好きな人も
この条件を当てはめることができます。

①スティーブ・ジョブズ
②iPhoneなどの製品
③Apple Storeなど

こうして3つをそろえると
信仰・支持・愛好する人たちの
役に立っているとよくわかります。


■三帰依文

仏教においては
お釈迦様の弟子になるときに
唱える「三帰依文」があります。
さんきえもん、と読みます。

『南無帰依仏』
『南無帰依法』
『南無帰依僧』

「南無」は、「お任せします」の意。
「帰依」は、「心のよりどころにします」の意。
「仏」は、お釈迦様のこと。
「法」は、お釈迦様の教えのこと。
「僧」は、その教えを学ぶ人たちのこと。

お釈迦様と
お釈迦様の教えと
その教えを学ぶ人たちを
大切にしていきます、という挨拶
といった感じです。

お釈迦様は悟りの境地の人ですから
煩悩がありません。

信じる人を裏切っても
何の得もしないわけです。

さらに
信じる人が
利益を得るかどうかについても
執着がありません。

なので疑っても何も出てこないし
逆に自分の課題をお釈迦様に
押し付けても何も起きません。

そんな中立な存在なので
誰でも「100%自分次第」で
いられるわけです。

そんな中立なお釈迦様が
「こうすると悟れるよ」と
話してくださったのが「教え」です。

その教えを
最初は「なんだそりゃ」とか
「そんなの当たり前じゃない?」とか
思ったり
意味がわからなかったりしても、

大切に取り組んでいくうちに
解釈が変わったり深まったりして
「ああ、そういうことだったのか」と
理解していけます。


教えを学ぶ人たちは
仲間です。

「敵」とか「競争相手」では
ありません。

人には「優越性の追求」がありますから
人より自分が優れていると
安心できます。

だから安心したくなると
つい「敵」とか「競争相手」を作って
それらより自分が優れていると
示したくなってしまいます。

その欲を持つこと自体は
自然なことなので問題ありません。

でも行動に起こして
「どうだ、自分ってすごいだろ」と
自分が上で相手が下の構図を
ととのえようとする生き方は
孤立へと向かってしまいます。

孤立に向かうと
感じるしあわせは増えません。

「教え」を学ぶひとつには
感じるしあわせを増やしたいから
です。

そのためには
ともに教えを学ぶ人たちを
「敵」とか「競争相手」ではなく
「仲間」と見ていくことが
大切というわけです。


■学ぶ姿勢の整え方

この「仏・法・僧」は
仏教以外を学ぶときも
役に立ちます。

「仏」は
教えてくれる人の前で
自分が「100%自分次第」で
いられるかどうかを
確認することです。

「法」は
教えてくれる内容を
疑わないことです。

教えてくれることを
素直に学び、行動に移すときに
よく観察することです。

何が起こるか
やったらどうなるかを
体験していくことで
自分の学びとしていけます。

「僧」は
ともに学ぶ人たちを
仲間なんだと感じることです。

学ぶ人がいなければ
教えてくれる人も
いなくなってしまいます。

同じ「教え」を学ぶ人は
その「教え」を支える仲間です。

あとは学んだ「教え」を
どのように
「自分より相手優先」な方法で
役に立てることで
自分の社会的有用性は高まって、
共同体感覚が高まります。

共同体感覚が高まると
感じるしあわせが増えます。



お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。



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