普段私たちは
感情を使って生きています。

お腹がすいた感情は
空腹を満たす行動を促します。

身の危険からくる感情は
自分の身を守る行動を促します。

人肌さびしい感情は
人との接触する行動を促します。

見たい好奇心からくる感情は
対象を見る行動を促します。

目的に応じて
感情を発生させています。



感情は
行動のための燃料
といったものです。

受け身でいると
感情に呑まれてしまいます。

呑まれて支配されてしまうと
望まない状況になることも。

例えば、
イライラしていて
まわりに怒鳴り散らしていたら
相手は自分から離れていきます。

離したいなら成功ですが、
違うなら失敗です。

感情まかせに
その感情の目的もよく見ずに
行動した結果です。



反対に感情を
自分の理想実現に利用することも
できます。

それは、次のような感じです。


衝動的に、食べたくなった。
でも、ダイエット中だからダメ、
と思考する。

食べて満たされたい感情を
押し殺しているような感じ。

そこから枠を広げて
「何のためのダイエットか」を
見てみる。

あの服を着たいから。
鏡に映る自分を、より美しくしたいから。
以前の自分の美を取り戻したいから。

押し殺す感じは薄れ、
理想の実現のために「食べない」を
選べる自分を感じる。



さらにその先も見ていく。
美しくなって、何が手に入る?

気になる異性に、良く見られる。
今一番欲しい理想だ...(例えば、です)

その理想が実現すると
何を感じる?

どんな
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚
そして体感覚を感じるかな?

それが快であればあるほど
今食べるかどうかは小さい問題に
見えてくる。

どんどん理想の実現に創造的になっていく。

・食べない
・食べるなら、身体動かす
・食べるの後にして、先に身体動かす
・身体動かすのは、具体的に○○
・体型を課題にせず、他の魅力を磨く!
などなどいろんな選択肢が出てくる。

感情に支配されずに
感情を利用している感じになりますね。




私が、
DV・虐待する当時の配偶者と
婚姻関係にあった頃のことです。

その人は
何かで失敗してストレスを感じると
そのストレスの発散に
子供を利用します。

そのストレスは
ネットゲームで失敗したり
何かを探しても見つからなかったり、
ほとんど子供とは関係のないことで
起きたもの。

なんくせをつけてる、感じです。




そのきっかけは
何でもいい。

例えば、
片付けるよう指示も出してないのに
「なんであれ、片付けてないんだ?」
などといって、
親の指示を守らないから叱る、という
構図を整える。

そこから、子供を怒鳴りつける時間が
始まります。
長いと2時間とか...



家庭の中まで見に来る人はいないので
外部の人に良い顔していると
まさかそんなことをしているとは
わかりません。

保育園でも、そんな感じがするが
家庭内までは踏み込むことはしません。

家庭で子供を守れるのは
自分しかいない、
そう思って最初は止めていました。

「子供のしあわせのために
言い聞かせるのに、怒鳴る必要はないだろう」
なんて言って、割って入ってました。

すると、怒りの矛先は私になります。
私が相手だと、言い合いになるので
当時の配偶者は疲れます。

疲れると、言い合うよりも
物を壊したりして
何か私が不快を感じる行為をします。

最終的には自室に引きこもって
私を無視することが始まります。

それで子供へ怒りをぶつけることも
終わったと思っていました。



ある日、仕事から帰ると
玄関を開ける前から
室内で怒鳴る声が聞こえました。

室内へと入っていくと
子供が直立させられて
当時の配偶者から
すごい怒声を浴びせられていました。

私が帰宅して
怒鳴り続けてると
私に止められると思ったのか
怒鳴ることは、止まりました。

大声でものすごく泣きながら
私のところに逃げてくる子供を
抱きしめながら、
そこで、気づきました。



子供へぶつけたい怒りは
一度止めたとしても消えないんだ。

私がいなければ
ぶつけられる環境が整うから、
そこで改めてぶつけるのか。


しかも当時の配偶者は
止められた分のストレスも加えて
子供にぶつけているようで、
すごい怒りになってる...

子供ふたりっきりだと
もしも危険な行為に及んだときに
助けに入れない。

これは危険な状況だ、と。



それからは
私の目の前で怒鳴りだしても
そのまま見ていました。

割って入ってこず
何も言わない私を見て
当時の配偶者は
だんだんとやりたいように
やるようになっていきました。



「悪いってわかったか!」

「...わかった」

「わかったじゃねーだろ、おい。
"わかりました"だろ。言い直せ。」

「...わかりました」

「なんだ、その顔は。
お前が悪いから叱ってんだろうが。」

「...」

「何ふれくされてんだよ。
背中曲がってるぞ、ちゃんと立て!」

「...」

「返事は?返事もできねーのか?」

「...はい」

「は?聞こえねーよ。」

「...はい」

「聞こえねーって言ってんだろうが」

「...はい!」

「出せば出るじゃねーかよ。
なんで最初から出さねーんだよ」

「...」

「なんでって聞いてんだろうが?
なに無視してんだよ。あ?」

「...」

「悪いことしてんだろ、お前。
悪いことしたら、謝るんだよ。」

「...ごめんなさい」

「あ?な・に・が、ごめんなさい?」

「...」

「おい、聞いてんだろうが!」

「...」

「言えよ、何がごめんなさいだよ?」

「...声、小さいこと...」

「あ?聞こえねーよ」

「...こえがちいさくてごめんなさい!」

「何怒ってんだよ。
お前が悪いことしたから怒られてんだろ。
怒る権利なんてねーんだよ!」

「...わたしはわるくない」

「は?今、なんて言った??」

「...わたしは悪くない!!」

「は?悪くないって?
こっちは迷惑かけられたんだよ。
お前が悪くないわけないだろう。ははは」

「...」

「背中曲がってんだろ、ちゃんと立てよ」

「...」

「おい、ちゃんと立てって言ってんだろ」
(蹴るそぶりを見せる)

こんなやりとりが、続く...



はじめ、私の目的は
当時の配偶者の怒りから
子供を守ること、でした。

ほとんど衝動的に
割って入ってました。

しかし、それが逆効果で
子供の状況をさらに
悪くしている可能性が明らかなり、
その目的も変わりました。



怒鳴られている子供を
傍らで見ているのは、つらいです。

そこで感じる感情のままに
私が行動していたら
私がいない場で
より大変な状況になってしまう。

だから、
感じる感情の目的通りではなく
平和な暮らしを実現したいことから
感じる感情によって、
衝動的に行動せずに、
その場は忍耐するに努めました。

欲しいのは、
一時的なやすらぎ、ではなくて
日常的なやすらぎ、だから。



子供からは
その場に私がいることで
助かることがあると、教えられました。

それは
・簡単には叩かなくなった
・叩くとしてもおしりを手で5回とかになった
・終わったらすぐに逃げられる場所がある
・次に怒鳴られるまでの間隔が延びた



当時の配偶者は
一度、気が済むまで怒鳴り終えると
すっきりした顔で、私に言います。

「怒鳴りたくて
怒鳴ってるんじゃないんだけどね。」

良い仕事した、と
顔に書いてある。

子供の課題じゃなくて、
ご自分の課題なのですけど...ね。




私の目の前で怒鳴って
もらうようにしてからは、
私がいない場、
すなわち当時の配偶者と子供の
ふたりの時間に怒鳴ることは
ほとんどなくなりました。

子供の命の危険が減ってくれました。



目の前で子供が怒鳴られるのは
つらいです。

そこに衝動的に行動を起こすより
平和な暮らしの実現をしたいために
その場は忍耐する。

そこで生まれる感情は
平和な暮らしの実現の
燃料として、私を行動させてくれました。

あきらめずに行動した結果、
時間はかかりましたが、
平和な暮らしを実現することができました。

実現してからは
子供が怒鳴られ続けることは
もうありません。



感情に支配されないためには
感じる感情をよく観察することです。

すると、その目的も見えてきます。

本当に望む理想へと
導いてくれる感情なら、歓迎したい。

違うなら、
本当に望む理想を
あらためて確認していくことで
その実現へと導いてくれる感情に
出会えるはずですね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。



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