愛されたいと
思うのは
自然なこと。

大切にされたい
大事にされたい
優しくされたい

自分が相手に
そうされるに
ふさわしい要件

それは
まず自分が
愛する側にいること。




されたらうれしいことは

してくれたその相手にも
してあげたくなる。


笑顔を見せてくれたら
自然と笑顔で応じたくなる。


ゆっくり丁寧に
時間をかけて接してくれたら
同じように相手にも
ゆっくり丁寧に
時間をかけて応じたくなる。




愛情不足な状況だと
愛を向けてくれたら
むさぼり食ってしまいそう。

優しくされたとき
乱暴に応じても
さらに優しくしてくれたら
それだけ大切にされてるって感じる。
特別な感じ。

それを感じたくて
わざわざ愛に乱暴で
応じたりする。

それは相手に
「甘える」ってこと。

相手との関係を
対等でない上下の関係にして
自ら下に入っていって
上に面倒をみさせようと
すること。

甘えたかったら
それもいいかも。




親に育てられる中で
そうして十分甘えられたら
甘えたい欲は満たされ
いつしか甘える必要が
なくなってくる。

一方で、
親が愛情不足の場合は
子を甘えさせてあげられずに
愛情ではなく
愛情不足を引き継いでしまったりする。

そうして愛情不足になった人は
多いと思う。


そんな中で
愛される自分になるために
まず必要なことが

自分が愛する側に立つ

ということ。




それは
ときに「甘えさせてあげる」ことに
なるかもしれない。

それでも
できる範囲で甘えさせてあげながら
対等な関係でいようとする。

最初はなかなか伝わらないかも。

でも、続けていくと
やがては相手も
自分を愛してくれるようになる。



愛する側に立つ、といっても
いきなり身近じゃない人を
愛そうとしても
難しい。

いちばん最初に
自分で自分を
愛してみる。

そこで
愛する側に立つと
愛されるんだと
わかるから。

この感覚は、
注意して観察しないと
見逃してしまう感覚だから
この一週間のテーマとかにするなど
少し特別な体制で臨みたい。



そして
身近な人。

恋人、家族
きょうだい
親戚

近いところから
お互いにお互いが
愛する関係を築いていく。

想像するだけで
胸のあたりが
ぽかぽかしてきます。





私と
私の父親との間で
何かトラブルがあると

父親は
「いかに自分が悪くないか」を
一生懸命に説明してくれます。

その一生懸命さは
執念や怨念みたいにすごい。


これからどうするか、に
目を向けて相談したいが
「いかに自分が悪くないか」
ばかりを話してくるので
話が進みません。



そうして自分を守らないと
いけない状況が
父親とその親との間で
あったのでしょう。


でも、いくら事情があっても
父親が「自分は悪くない」と
言えば言うほど
私が悪いと責められてるようで
不快です。

自分が悪くない
イコール
自分以外の誰かが悪い
ということなので

関係者が私と父親の2人なら
私が悪、ということになります。


父親は
自分一人の問題でも
わざわざ誰かを巻き込んで
巻き込んだ人を悪とすることで
自分の無罪を証明しようとまで
することも、よくありました。

巻き込まれた人は
気分悪いです。
たいてい私ですが...



問題があって
誰が悪いか、にこだわると
事態を進展させることが
できません。

誰が悪いかを
判明させることは
自分は悪くないと信じている人だけに
利益があることで

他の
これからどうするか、を
話し合いたい人に
利益はありません。



そんな父親を見て感じたのが
愛されたい、と
強く望んでいることでした。

父親の中では
無罪=愛される存在
となっているから

そこまで自分の無罪の証明に
執着してるんだな、と。


これが正解かどうかは
わかりません。

でもそう思うと
過去のやりとりの動機や目的が
しっくりきます。



愛されたいと望むあまりに
他に犠牲を出しても
しょうがない。

そう思う人が愛されるに
ふさわしい存在になるのは
難しいです。


自分を愛してくれる人を
愛するのはやさしいです。



だから
愛されたいと努力するより
愛する側に立って
相手を愛することの方が

愛されるにふさわしい自分に
なるのに近道ですね。




お読みいただき
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。



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