以前、今までもずっと、幸せだったんだなぁと気づきましたという記事を書きましたが、
今日が、その父の命日です。
私は、高校三年生でした。
私が東京に出てきて11カ月、全く連絡をとってなかったんですが、祖母から『危篤だ』と連絡がありました。
母と一緒に、お茶の水の病院へ。
病室に入って近づいてみると、目にはゼリー状のものがあり、黄疸が出て体が黄色でした。
病院の先生が
『意識が戻ってしまったら、本人相当な痛みで苦しむ事になるので、このまま様子をみます。意識が戻ることはないでしょう。』
と言っていた気がします。
意識がないまま、亡くなるのを待つだけ。
それから毎日、母と病院に行ってました。
危篤の連絡をもらって、3日後………………
その当時、私はゆで卵ダイエットをしてましたなので、病室にも【ゆで卵】【グレープフルーツ】を持ち込んで、父に背を向けた状態でパクパク食べてたら
『何食べゆうが?』
と後ろから男の人の声が
振り返ると、父の意識が戻ってました
祖母も母もビックリして
『え?あんた、わかるが??』
と、慌ててナースコール!!
駆けつけた先生も看護婦さんもビックリ!!
亡くなるだろうと言われてた日に、意識が戻った父。
みんな大騒ぎ。
ただ、やはり最初に先生に言われてた通り、意識が戻るとかなりの痛みがあったようでした。脚もダルかったようで、母がずっとさすってました。
確かその時、
お父さんとお母さんが一緒にいて、お母さんが看病してる~
やっぱり、この二人は夫婦だったんだな。
私は、この二人の子供なんだな。
と、内心嬉しかったのを覚えてます。
そして、次の日!!!
いつものように病院で、母が脚をさすり、私はゆで卵を食べていたら、病院のドアが開いて、ドアの方を向いてた母と一言二言言葉を交わして、すぐに閉まりました。
そしたら母が祖母に
『お義母さん、○○さんが来たよ』
と告げて、祖母が慌てて出ていきました。
この○○さん………………
父と母が別れるきっかけになった人
父と母が別れるまで、嫌がらせの電話を母にかけてきた人
(そして、この記事に書いた事故は、母がこの○○さんを街で見かけて、イライラ&考え事をしながら運転してたのが原因でした)
ええーーー!!!
この人、父とはかなり前に別れてるはずなのに!!なんでここに??
とビックリ
後で聞いたら、祖母が連絡してたらしい。
次の日、母と私が行く前に病室に来て、最後の別れをしたようでした。
驚くのはこれだけではなく、どうやら歴代の彼女が、父に最後に会いに来てたらしい(うちのお父さん、どんだけモテてんの!!)
それから2日間、父は、親戚、友達、元カノたちみんなと話して、泣いたり謝ったりして満足したのか、
『痛くて苦しいから、もう良い。』
と、永遠の眠りにつきました。
危篤の連絡をもらってから、ちょうど1週間後。
もう2度と話せないと思ってた父が意識を取り戻し、みんなと会えて話せて、そして眠りにつきました。
うちの父は幸せものだったなぁ
父が亡くなってから、病院の先生に
『あなたが娘さんですか。あなたが東京にいたから、お父さんは高知の病院に転院したがらなかった。ずっと『娘が東京にいるから、東京にいたいんだ』と言ってました。でも、みんなで説得して、やっと本人が納得してくれて。救急車も船も高知の病院も、全部手配が済んで、高知の病院に移る前日に、危篤になったんです。最後に娘さんに会えて、本当に良かった。』
と言われました。
あれ…………今、思い出しながら色々書いてるけど………
私、やっぱり昔から父に愛されてたんだなぁ
まぁ、母は毎年命日になると、
『みんなとは話して、ごめんねって謝ってってしてたけど、私には一言もなかった!!
あんたをちゃんとここまで育ててくれてありがとうくらい、言えば良かったのに!!』
と、ぷりぷりしてます
離婚してからも、私と一緒に父と食事に行って交流があった母。
まさか、父を看取ることになるなんて!!と、今でも言ってます。
そんな、今年81歳になった母の口癖は
『あなたのお父さん以上の人はいなかった。今でも、お父さんが一番だと思ってる。』
です
(さっき母に電話したら、
『今でも一番会いたいのはお父さん。早く迎えに来てくれないかな。あれ、あの人迎えに来てくれるかな。え~!私があの世で捜さなきゃいけないの??』と言ってました)
父が亡くなってから27年ですが、最近になってやっと、本当に父と母の娘で幸せだなと思います。