メモ以前高校生におこなった授業のあといただいた感想の抜粋をご紹介しています。
生徒さんからのお手紙

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に対する私の感想、昨日からの続きです。

 

この生徒さんは、冷静に、でも切々と、かなり具体的に
「健常者と言われる自分たちだって、こんなことを言われて嫌な気持ちになる」
ということを教えてくれました。
障害がある人の話を聞くのは好きではなかった、
ということを正直に書いてくれた人たちはこれまでもいたけれど、
「自分たちだって」
と、「健常者」というくくりの中で生きている人間にもこんなことがある、
ということを教えてくれた人はいなかったので、
そうかそうか、とうなずきながら読ませていただきました。
 

私は、「人はみんな違うんだから相手の違いを認めよう」ということよりも、
「身体や境遇がどんなに違っても、同じ人間。
人からされてうれしいこと、されたら悲しいことは、相手も
あなたと一緒なんだよ」
ということの方を伝えたい、ということも意識していたので、
そのことをすごくしっかりキャッチしてくれたこともうれしかったです。


この生徒さんは、「テレビや学校の授業で障害や障害者について話し
教育しようとする人たち自身はみんな当事者ではない」という気づきも
自分がこれまで感じていた不快感、違和感の原因として書いていました。
ちなみに私もそのことは、障害がある人とない人が完全に分けられ
生活を送るような仕組みになっている日本の社会ではどうしても仕方がないこと、
と思いつつも、テレビ番組や道徳(今は別な言い方だとは思いますが)の
授業の内容や学びが薄かったり歪んだものを伝えてしまう理由として
大きいんだろうなということは考えていました。


でも私は、発信者である番組制作者や出演者、教員が、
当事者やその家族ではなくても、

なにかのきっかけで当事者の方たちに対して友人や知人のように感じたり、
また、きっかけは取材やこのような講座の聴講などであっても、
そこで出会った当事者に大きく共感や親近感を持ったりすれば、
きっと、そういう経験や感覚がぜんぜんないままよりは、
当事者が聞いても嬉しいと思えることを十分に伝えられるのではないかと考えています。

自分はその友人知人を傷つけたくない!力になりたい!

それは立派な原動力で、説得力のある言葉を生みます。


当事者が伝え方について考え続けるのと同じように、
当事者じゃない方も、今日明日自分や家族が当事者になる可能性は誰にでもあるので、

その時に少しでも過ごしやすい社会になっているためにも、
どのように次の世代の人たちに障害というものを伝え、考えていくとよいか、
一緒に悩み続けることは、とても大事なことだと思っています。


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