例外制度 | yunnkji1789のブログ

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 私の出身中学では、私がいた時に、制服を学生服からブレザーに変えることの議論が起きていた。

当時の生徒に、皮膚病で詰め襟が着れない生徒がいたのだ。そこで、折角だからより機能的なブレザーに変えてしまおう、とPTAから提案されたのだ。全校の生徒、保護者を対象にしたアンケートが実施されたが、それに先頭に立って強烈に反対したのが他の親より世代が上だった父だった。多数意見はブレザー容認だったのだが、食卓でも父は顔を真っ赤にして「全員頭がおかしい、けしからん!」と怒り狂っていた。父の反対の理由は極めて明確で「中学生は学ランに決まっとる!」というものだった。父の「中学生は学ラン」の根拠は「金八先生の桜中学は学ランだ」「街でも学ランの中学生なんかいない」と言うもの。結局、単に自分の感性にすぎないのだ。そして、詰め襟が着れないなら、例外にすれば良いとも言っていた。

様々な合理化が議論されるとき、保守したい側は必ず「どうしても合わせられない人がいるなら、その人だけ例外にすればいいだろう」と言う。

基本的に、規則や制度には軽々しく例外を作ってはいけない。例外があると言うことは、その規則、制度に不備があるということだからだ。

かつての学校制度では、障害者は例外として、義務教育が免除されていた。これを障碍者に対する優しさと言うのだろうか。どうしても、身体的、知的理由で学校に通えない、義務教育を果たせない、と言う事態に対して「じゃあ例外にすればいうだろ」と、制度の不備をごまかしただけである。養護学校を経過して、今は特別支援学校、教育制度として、全ての子どもが教育を受ける権利を行使できるようになっている。言っておくが、特別支援学校は、障碍者が通う学校ではない。何らかの理由で、普通の学生とは違う支援をして欲しい生徒が通う学校である。中には発達障害も含め、何の障碍もない生徒も通うことがある。定時制学校も同じ、今は勤労学生なんて滅多にいない。何らかの理由で全日制の学校に通えない、もしくは通いたくない制度の受け皿になっている。

例外を作るというのは、制度の不備をごまかすことにすぎない。例外にするのではなく、あらゆる人が、公平に享受できるように、制度を改める、と考えなければいけない。