吾妻鏡 | yunnkji1789のブログ

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再来年の大河ドラマが「鎌倉殿の13人」に決定している。主人公は13人の合議制の一人だった北条義時になるようだ。そもそもこの13人合議制は、二代鎌倉殿(鎌倉将軍)源頼家があまりにもポンコツだったから作られたと、長年言われていた。
それは、この時代の歴史書「吾妻鏡」の記述が元になっている。
しかし近年、この吾妻鏡は意図的な捏造が多いことが指摘されている。
簡単に言えば、執権北条氏の権力簒奪を正当化するために、時政が見いだした頼朝だけを名君にまつりあげ、頼家、実朝をバカ殿。つまり、北条氏が幕府を運営するのは仕方のないことだというために、意図的に事実を捏造しているのだ。
しかし、決して頼家はバカ殿ではなかった。
なぜそれがわかるかと言うと、公文書が残っているからである。
鎌倉幕府な一番の仕事は土地の権利の調停と保証である。というより、そのための組織と言ってもよい。
調停を受けた御家人は、権利の根拠とするため、鎌倉から下された文書は、全て丁寧に残している。
署名は勿論、筆跡も残るから、誰がイニシアチブをとってどんな裁定を下したのか、ちゃんとわかるのだ。
頼家もきちんと自分の意思で評定を下していたことがわかっている。
13人の合議制は、実際には政治をするというより、御家人の訴えを、敢えて鎌倉殿が直接受け取らない、つまり評定の公平性を担保するために頼家自ら配慮したものだという説が出てきている。
歴史書というものは権力者の意図が働くのがあたり前。そこからどうやって事実を探るかというというと、このように公文書の存在が重要になってくる。
征夷大将軍は頼家の謀殺の後、弟実朝に受け継がれる。彼もバカ殿評が強いが、これもはやり吾妻鏡の影響だろう。私は彼の治世こそ源氏政権の最盛期だと思っている。鎌倉時代というのは、常に反乱や騒動が繰り返される時代であるが、実朝は義時と協力してよくまとめあげていたことが、これもやはり、様々な公文書からわかっている。しかし、公暁による衝撃的な暗殺であっけなく幕を閉じ、和歌狂いのへなちょこ将軍の烙印を押されてしまう。
その公暁もその場で成敗され、武士の勃興という激動の立役者だった摂津源氏は、歴史の波の中に影も形もなく消え果ててしまう。