交響曲第一番ヒロシマ ゴーストライター事件が今注目されています。 そして 事態は 佐村河内氏と新垣氏との 泥沼化に発展した感があります。
これは全くの 私の意見なのですが 婚活 そして 出会いの時の 時事ネタにでも もしよければ お使いください。 さて 私が思うに この様な一連の スキャンダルによって 交響曲ヒロシマに対する 価値が下がってしまったと思っている方も 多いのではないでしょうか?
つまり 倫理的に問題のある人の作曲した作品は 純粋な思いが込められた作品なのか? と疑いの目で見てしまうということです。
私の考えは もし今が未来の西暦2100年だったとして ある人が90年前の 日本人が作曲した 交響曲を探し出して聴いたとします、 そして その曲のタイトルが ヒロシマ だったとします
勿論その人は 2014年に起きた このスキャンダルを知る由もありません、そして 曲は第三楽章に入りました なかなかいい旋律が流れてきて 「結構 好い曲じゃない !! 90年前に作られたという 古さは感じるけれど
旋律の良さが曲の是非を決定するのは 今も昔も変わらないことなんだろうな。」 こんなことを思ったとします。
そして時代は現代、私たちは百年、何百年前に作られたクラッシック音楽を聴き 楽しんでいますが その作曲家の倫理観まで 曲の良し悪しを決める材料に しているでしょうか?
もうだいぶ前ですが 映画「アマデウス」をテレビで見ました モォーツアルトの物語なのですが あの映画のモェーツアルトが 本当の姿だったとしたら
かなり 性格的に問題があると思います。 しかし ご存知のように 沢山の人がモォーツアルトの曲を愛しています それは 曲のクオリティーが高いほかなりません。
聞くところによると モォーツアルトは大変な浪費家であり 家計はいつも火の車だったそうです。 ですからお金のために曲を書いて家計を維持していたというのは かなり真実のようです。
願望を言えば 美しい曲は 美しい心から生まれたほうがいいに決まっていますし、そう考えたい気持ちも良く分かります しかし 曲がいい曲なのか 駄作なのかは 純粋に曲のみを評価するべきだというのが 私の意見です。
たしかに 佐村河内氏が 現代のベートーベンなどとのキャッチフレーズが付いたなら センセーショナルな話題になり 曲の宣伝にもなると思いますし
そう思って CDを買った人も 又、コンサートへ出かけた人もいることでしょう 言うまでも無く 多くの人を騙した事は かなり倫理的に劣る行為ですが
結局のところ 曲の良し悪しを判断するのは 先入観 を入れずに クオリティーのみで 判断すると言う事ではないのでしょうか?