潜水艦イ-57降伏せず | 映画プログレ桜田淳子

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監督:松林宗恵 1959年

昭和20年6月、潜水艦イ-57は、マレー半島のペナン基地にて極秘任務を受ける。それは、ポツダム会談が有利に運ぶよう、連合国側の親日外交官とその娘をカナリア諸島まで護衛することだった。最期まで国家に殉じるべしと闘ってきた艦長(池部良)にとって、降伏の片棒を担ぐことになるこの任務は、到底承服できるものでは無かった。だが、日本を救いたいと訴える司令官に動かされ、イ-57は、乗組員に任務を伏せたまま出航する。そして、乗り込んできた外交官父娘を見て、乗組員の間に動揺が走る。父親と違い日本人を毛嫌いする娘への反感をつのらせてゆく。だが、如何なる時にも上官を信じ、その命令に従うを是とする乗組員たちは、黙々と護衛の任務に当たるのだった。やがて、来襲した敵機から艦を守るため自らの身を犠牲にした若い水兵や、高熱を発した自分の為に冷房を停止して氷を作ってくれた乗組員の献身に触れるうち、娘は日本人への理解を示すようになる。一方、ポツダム宣言既に動かすこと能わずと判断したペナン本部は、イ-57の任務を解く。だが、無線機を破損していたイ-57に、その連絡が届くことはなかった。そんな中、遂にカナリア諸島に到着したイ-57は、待ち伏せていた敵艦に囲まれてしまう。絶体絶命のピンチに、艦長は、2人を引き渡すことを指令。「死なないで欲しい」と懇願する外交官父娘を静かに見送るのだったが…。


国産戦争映画の大傑作。今回で2度目の鑑賞だが、その評価は変わらず。だが、初見時と今回とでは随分印象が違う。

和平(=降伏)のお先棒を担ぐ任務に疑問を抱きながらも、それを忠実に遂行し、そうと決めたら疑いを挟まずに全力で取り組む乗組員達の印象がまず違う。深い信頼で結ばれた人間関係は、個々のイデオロギーや哲学の違いを超越してしまうほど、崇高なる日本人的美徳であると感じたのが前回。一方、そうした個や自意識の消滅こそが、様々な局面で判断を誤らせ、結果、ファシズムを後押しし、戦争への突入を許することになったのではないか、と感じたのが今回。もちろん、いずれの印象とも、前回も今回も感じたことではあるが、どちらをより強く感じたか、という点が異なるのである。

同様に、ラストシーンの印象も違った。(以下、ネタバレ)

護衛してきた2人を敵艦に引き渡した後、イ-57のもとにようやく作戦中止の指令が届く。だが、艦長は、2人を乗せた船以外の敵艦に対して攻撃を開始、最後は潜水艦ごと体当たりを敢行し、命を散らすのである。これを、戦争に殉じた(殉じざるを得なかった)者の悲劇と捉え、本作を優れた反戦映画とみなしたのが前回。一方、今回は、こうした玉砕戦法こそが、また、玉砕の命令に異を唱えられない(あるいは、喜んで玉砕を受け入れてしまう)心理状態こそが、客観的な目を曇らせ、戦争を泥沼化させていったのではないのか、と感じたのが今回である。

この印象の違いがどこから来るのかに関しては、多くを語る必要は無いだろう。戦時中に作られた国策映画とて、戦時に見れば戦意高揚として観られるが、平和時に見れば反戦映画と受け取ることが可能なのである。作品の印象というものは、鑑賞時に鑑賞者が置かれた状況によって、大きく異なるものなのだ。逆に言えば、その作品が “どう見えたか” によって、鑑賞者自身の心理状態や鑑賞者を取り巻く社会環境を推し量ることができるのかもしれない。

自衛隊の全面協力による実物の潜水艦を使った撮影。モノクロ映画であるにも関わらず、敢えてカラーで撮影した映像素材を合成し、それをモノクロに変換することで合成の精度を上げた円谷英二の特撮。そして、池部良をはじめとするキャストの名演技。こうした諸条件に支えられて、本作には迫真のリアリティーが与えられている。だからこそ、現実同様に作品内には様々な価値が内包されることとなり、それらが時と場合によって異なる光を放つのだと思う。