運動靴と赤い金魚 | 映画プログレ桜田淳子

映画プログレ桜田淳子

タイトルのテーマを中心に、好きなものを書き綴ります

監督:マジッド・マジディ 1997年

イランのとある貧しい一家。小学生の兄が、修理してもらったばかりの妹の靴を無くしてしまう。買い物の途中で目を離した隙に、ゴミと間違えられ回収されてしまったのだ。家には新しい靴を買うだけの余裕は無い。やむを得ず、兄の靴を交代で履くことに(イランでは、小学校低学年の授業は午前、高学年は午後と分かれているらしい)。数日後、妹が、自分の靴を履いた女子生徒を見つけ、後をつける。だが、その少女の家も貧しかった。靴は少女の父親がゴミ屋から手に入れたものだったのだ。さすがに「靴を返せ」とは言えなかった。ある日、学校対抗のマラソン大会が開かれることになる。3等賞の賞品は運動靴。妹のために兄は出場を決意する。そして、当日、レースには良い靴を履いた金持ちの子供たちが多数参加していた。果たして兄は3等賞になることが出来るのか…。


1987年、「友だちのうちはどこ?」に描かれたイランは、貧しいけれども素朴で温かい世界だった。2009年、「彼女が消えた浜辺」に描かれたイランは、豊かだけれども複雑でどこか冷たい世界だった。そして、その中間に位置する本作では、主人公は父と共に高級住宅街に足を踏み入れ、なんとか庭師の仕事にありつこうとする。マラソン大会では、親に付き添われた金持ちの子供が多数参加する中、主人公は穴の空いたボロ靴で3位入賞を狙う。そこに描かれているのは、貧富の格差が拡大し、ギシギシときしみ始めたイランの姿である。数少ないイラン映画の鑑賞歴だけで、同国の社会変化を俯瞰することなど出来ないことは承知しているが、少なくとも、急激に社会が変化しているであろうことは想像がつく。

そして、こうした社会変化に対し、子供は無縁ではいられない。本作の主人公である貧しい少年と妹は、今の日本では滅多にお目にかかれないほど実によく親に躾けられており、礼節をわきまえている。また、社会の仕組みや、そこにおける自分たちのポジションをよく理解し、それ相応に振る舞うことが出来ている。だが、こうした子供の自立性(自律性)は、本作にちらほら登場する金持ちの子供がそうである(らしい)ように、社会がリッチ化してゆくと共に、おそらくは消滅してゆくのだ。本作では、そんな「失われゆくイラン」が、悔恨とともに描かれている。