鯉名の銀平 雪の渡り鳥 | 映画プログレ桜田淳子

映画プログレ桜田淳子

タイトルのテーマを中心に、好きなものを書き綴ります

監督:宮田十三一 1931年

主演、阪東妻三郎。原作、長谷川伸。サイレント。その後、何度か映画化されているが、おそらくは最初の映画化作品である。

天保年間の下田、茶屋の看板娘に惚れたヤクザの銀平(坂東妻三郎)は、自分の弟分が既に娘とデキていることを知る。そんな折、敵対する組との出入り騒動が勃発。銀平はドサクサ紛れに弟分を殺そうとするが果たせず、下田を去る。4年後、下田に戻ってきた銀平だったが、町は敵方の組に支配されていた。かつての弟分も今では娘と結婚し、カタギとなって茶屋を切り盛りしていた。しかし、敵方の組による嫌がらせを受け、たまりかねた弟分は殴り込みに。それを知った銀平は、助太刀すべく後を追うのだった…


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無茶苦茶面白い!

下田に起きた、恋のもつれと渡世の義理人情という、今でいえば、水戸黄門の1エピソードみたいなちっちゃい話ではあるのだが、脚本が素晴らしい。そこそこ複雑なストーリーで、人物描写も表面的ではないのだが、全てのストーリー展開が理にかなっており、全ての登場人物の感情も断ち切られることなく流れている。当然、チャンバラシーンもあるが、テレビの時代劇のような “お約束” ではない。ステロタイプなヒーローなど、当然出てこない。脚本がしっかりしてれいば、水戸黄門の1エピソードだって、立派に映画になりうるのだ。

それと、やはり板妻がいい。これまでも何度か書いてきたが、本当にこの人は ”情けなくて哀れな男” をやらせたら天下一品だ。人間の弱さとか狡さとか、あるいは運の悪さとかを、表情一つで表現できてしまう。だから、音が無かろうと、台詞を弁士が代弁していようと、芝居の説得力が損なわれることはない。時代がトーキーに移ったとき、板妻はスランプに陥ったというが(甲高い声が、劇場で失笑を買ったのが原因と言われている)、気持ちはわかるような気がする。表情と立ち居振る舞いだけで十分に芝居を表現できていたのなら、逆にその芝居の幅を狭めてしまう彼の声は、邪魔なだけだったかも知れない。

もうひとつ。これも毎度の話ではあるが、サイレント映画の立ち回りは、ホント凄い。走るときは全力疾走、刀を振り回すのも手抜き無しの全身運動。「チャリーン」「ブシュッ」といった効果音に助けてもらえないワケだから、本気の芝居で迫力を見せないとしょうがない。しかも、その本気芝居の迫力を観客に伝えるには、細かくカットを割ったりせずに、一気の長まわしのほうが効果的。当時、チャンバラシーンでは1カット撮影するごとに、役者はヘトヘトになっていたというが、さもありなん。

とにかく見ていてグイグイと引き込まれる。助太刀に向かった板妻が殴り込み先に到着するシーンなど、「よっ、待ってました!」と、声をかけてしまいたくなる。当時の映画上映は、スクリーンの映像・楽団の音楽・弁士の解説という、三つの要素がコラボレートするライブ・パフォーマンスだったという。そんな熱気のこもった空間でこの作品を見ていたら、まちがいなく、スクリーンに向かってかけ声をかけていただろう。