西洋のダンス、日本の踊り | 映画プログレ桜田淳子

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新国立劇場に、新国立劇場バレエ研修所の卒業公演を見に行った。演目は、コンテンポラリーが「人魚姫」、クラシカルが「シンデレラ」。そのクラシカルを見て感じたこと。

西洋のパフォーマンスは、「オペラハウス・パフォーマンス」と「ストリート・パフォーマンス」とに分かれると言われる。前者が、劇場上演・プリペイド・完全有料・舞台と客席の分離・作品性、といった属性を持つのに対し、後者は、屋外上演・ポストペイド・志納・演者と観客の一体化・即興性、といった属性を持つ。という具合に、両者は対比的に語られることが多い。

しかし、バレエ(オペラハウス・パフォーマンス)を見ていて、何故か、パントマイム(ストリート・パフォーマンス)を思い出した。両方とも無言劇(パントマイムを劇とは言えないかもしれないが)であるという点、無言を補うために身振り手振りを駆使している点、その結果、見ていてとてもわかりやすいという点が、非常に似ているのである。

では、日本のダンス劇はどうか。思い浮かべるのは能や神楽(正確には “ダンス=踊り” ではなく “舞い” だが)だろうが、いずれも見ていてわかりやすいとはお世辞にも言えない。しかも、能の場合は謡があるわけだから、無言劇ですらない。なのに、現代人が能のリテラシーを失っていることを考慮しても、おつりが来るくらい能はわかりにくい。

理由は簡単。バレエは目一杯の身体表現でメッセージを表現しているが、能は、微かな身体表現でメッセージを発している。また、バレエの舞台装置は具体性に富んでいるが、能は抽象性の塊だ。民族・文化・国家の衝突や興亡に乏しい島国では、コミュニケーションをとるには最低限の情報だけでいい。皆まで言わずとも、お互い察しあうことで、コミュニケーションは成立する。一方、常に民族・文化・国家がシャッフルしてきた西洋では、声高に平易に端的に言わないと、相手には伝わらない。この違いが、東西の舞台劇の違いを生んでいるのだろう。

だが、それだけか? にしては、能のわかりにくさはただ事ではない。まるで、相手に理解させることを拒否してるんじゃないかと思うほど、わかりにくい。全く観客に優しくない。

もしかしたら、能のコミュニケーション相手は、観客(人間)じゃないのかもしれない。能がメッセージを発しているのは、自然とか霊とかそんなものなのかもしれない。であれば、表現を人間にわかりやすくする必要はないはずだ。能だけではない。神楽もメッセージを伝える相手は神様だ。盆踊りもそう。ダンスパーティーと比較してみると、ダンスは相手(人間)のために踊るが、盆踊りは祖先の霊の為に踊っているではないか。

一方で、バレエにおけるピッチリとしたコスチュームや、ポワント等の不自然だが美しいとされるポーズや、高々と宙に舞うジャンプは、人間としての日々の鍛錬の成果や、身体能力および身体表現の可能性を、観客にアピールしているように見える。オペラも同様だ。あの人間離れした発声は、不自然そのものではあるが、極限までの身体改造のアピールとも見える。そして、同じ人間でありながら、日頃、肉体を鍛錬していない我々観客は、鍛え抜かれたダンサーの姿を見て、驚嘆し感心し感動するのである。