ひだまりと自愛に包まれて

今、ここに生きる。

 

 

 

自分を許し、癒し

ラクに生きるお手伝いをします。

 

 

 

今日もこのブログにお越しくださり

ありがとうございます。

 

 

 

心理カウンセラー

ゆみっち、こと林由美です。

 

 

 


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心理カウンセラー
心屋入門認定講師

「エデンの森」認定講師

不安症とともに生きるボランティア団体「不安なハリネズミたち」代表
 

   


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世間では、よく

 

 

 

 

愛された人は、

人の愛し方がわかる、とか

 

 

 

 

親から愛情を与えられた人が

人へも、愛情を与えることができる、とか

 

 

 

 

そんなことが言われています。

 

 

 

 

私も、つい最近まで

そうだと思っていました。

 

 

 

 

今も、そんな側面は、確かにあると思っているけど。

 

 

 

 

だけど

それだけじゃない、と最近は思うようになりました。

 

 

 

 

愛された人でないと、愛情はわからない?

愛を与えられた人でないと、愛を与えることはできない?

 

 

 

 

そうか?

本当にそうなのか?

 

 

 

 

それって

その考え、って

 

 

 

 

軸が、他者じゃないか?

 

 

 

 

愛された子ども

愛された人

愛情を与えてもらった人

 

 

 

 

それって、他人軸じゃないか?

 

 

 

 

(愛する人、ではなくて、愛される人、という表現が、

軸がこちら側ではなく、軸が他者にある表現だと感じる)

 

 

 

 

 

愛される、とか

愛を与えられる、とか

そんな他人軸からのスタートで

 

 

 

 

今度は、こちらが愛する、だとか

今度は、こちらが愛情を与える、だとか

 

 

 

 

そんな、自分軸のことができるか?

 

 

 

 

そんな疑問を持ったのが

始まりでした。

 

 

 

 

まあ、単純に

 

 

 

愛された人は、

人の愛し方がわかる、とか

 

 

親から愛情を与えられた人が

人へも、愛情を与えることができる、とか

 

 

 

 

この言葉に

違和感を感じ始めたのですよ。

 

 

 

 

な〜んか、嫌だな、と。

 

 

 

 

愛されてない、とか

愛情を与えられてない、とか

愛情を知らずに育った、とか

 

 

 

 

だから

人を愛せない、なんて

愛情を与えられない、なんて

 

 

 

 

そんな言い方、

そんな見方、

 

 

 

 

なんか、人を区別してるようで、

なんか、レッテル貼ってるようで

 

 

 

 

嫌だな、と。

 

 

 

 

それは、違うんじゃないか、と。

 

 

 

 

それが

私の妄想劇場のスタートでした。

 

 

 

 

(妄想、って笑笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

私は

 

 

 

 

「愛」とか「愛情」とか「優しさ」とか

そんな類のものは

 

 

 

 

この世の中には

有り余るほど、そこらへんに溢れていると思っています。

 

 

 

 

そこかしこに

足元に

至るところに

 

 

 

 

無尽蔵にある。

散らばっている。

溢れかえっている。

 

 

 

 

与えるものでも

与えられるものでも、ないんです。

 

 

 

 

すでに、そこに、ある。

 

 

 

 

だけど

 

 

 

 

だったら

なぜ、それが見えない?

なぜ、それを感じられない?

なぜ、無いと思ってしまう?

 

 

 

 

(私も、そうです。

なかなか見えなし、しっかりと感じられない)

 

 

 

 

それは

それらを感じられるセンサーが

こちら側に、あるかどうか。

 

 

 

 

そのセンサーが、敏感に作動しているかどうか。

 

 

 

 

それだけだと思うんです。

 

 

 

 

愛があるかないか、ではなく

愛を知ってるかどうか、でもなく

 

 

 

 

すでに、無尽蔵にある愛を

こちら側が、どうすれば感じられるか、だけのこと。

 

 

 

 

そして

それには、それを敏感に感じるセンサーが必要になってくる。

 

 

 

 

このセンサーが、

先ほど書いた

 

 

 

 

・愛されて育った子ども

・愛情を与えられた人

・愛された人

 

 

 

 

こんな人たちは

もしかしたら、こんなセンサーも、育てられやすかったのかも知れない。

 

 

 

 

それは、私も同感しますが。

 

 

 

 

だけど

だったら、そのセンサーを育てていけば、いい。

 

 

 

 

愛を知らない人、ではなく

愛されてない人、でもなく

愛情を与えられてない人、でも、もちろんなくて

 

 

 

 

「愛」とか「愛情」とか「優しさ」とか

そんな類のものは


 

 

 

そこらへんに、散らばっているのだから

それを感じ取るセンサーを

 

 

 

 

磨き、育て、敏感にすればいい。

 

 

 

 

それだけのこと。

 

 

 

 

そう思ったのです。

 

 

 

 

そう考えると

 

 

 

 

これは

「幸せ」にも似てるな、と思いました。

 

 

 

 

いや、全く同じだな、と思いました。

 

 

 

 

このことを詳しく書いたブログです。

一年前に書いてる。

 

 

 

 

よかったら読んでみてくださいね。

今も、「いいね」を押してくれる人がいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でね

 

 

 

 

じゃあ、どうすれば

そのセンサーとやらは

 

 

 

 

目覚め、育て、磨けるの?

 

 

 

 

そう思ったときに

私は、自分の過去を振り返り、ある考えに至りました。

 

 

 

 

それは

「愛したくなったとき」

あるいは

「愛そうと思えたとき」

 

 

 

 

なんじゃないかな〜、と。

 

 

 

 

そのときが

そのセンサーを磨くタイミングであり、チャンスなんじゃないかな、と。

 

 

 

 

確かに

 

 

 

 

愛されてない、とか

愛情を与えられてない、とか

愛情を知らずに育った、とか

 

 

だから

人を愛せない、

愛情を与えられない、

 

 

 

 

こういう人は

愛し方も、下手だと思います。(私も完全にそう)

 

 

 

 

どんなふうに愛していいかも、わからない。

 

 

 

 

そもそも、愛するということが

わかっていない、ということもあると思います。

 

 

 

 

私も

男女の異性としての「好き」しか知らなかった。

自分勝手の「好き」だけだった。

 

 

 

 

今も、そんなに変わっていないです。

 

 

 

 

そんな、私みたいな人間が

 

 

 

 

「この人を大事にしたい」

「この人と一緒にいたい」

「この人の笑顔を守りたい」

「この人を幸せにしたい」

 

 

 

 

そんな

「この人を愛したい」

 

 

 

 

うまくできようが

きちんと理解してようが

 

 

 

 

そんなのは全く関係なく

 

 

 

 

ただ、

「愛そうと、してみたい」

 

 

 

 

そう思ったときが(そう思えたときが)

 

 

 

 

自分のセンサーを

磨くタイミングであり

育てるチャンスであり

 

 

 

 

そして、そのあと

 

 

 

 

その

磨かれたセンサーで

育てられたセンサーで

 

 

 

 

今まで

 

 

 

 

愛されてない、とか

愛情を与えられてない、とか

愛情を知らずに育った、とか

 

 

 

 

そんなふうに

言われてた人たちが(自分のことをそう思い込んでた人たちが)

 

 

 

 

「愛」とか「愛情」とか「優しさ」とか

そんな類のものに

 

 

 

気づいていけるようになり

そして

 

 

 

 

人を愛せるようになり

人に愛情を与えられる人になる。

 

 

 

 

人から愛されたから、ではなく

人から愛情を与えられたから、でもなく

 

 

 

 

人を愛することをトライしたとき

誰かを心底、愛そうと思えたときに

 

 

 

 

(愛される、という他人軸から

愛する、という自分軸へと)

 

 

 

 

人は

あらゆる愛に、気づいていけるのだ、と思うのです。

 

 

 

 

やっぱり

自分の中にあるもの

自分の中で育ったもの

 

 

 

 

それしか、人は見えないし、感じられないのです。

 

 

 

 

 

 

 

昔々

私が幼稚園ぐらいだったころ

 

 

 

 

毎年、クリスマスになると

近くの市民会館で、市民の子供に向けてのクリスマス会がありました。

 

 

 

 

主催者は誰かはわからない。(大人は知ってたと思うけど)

 

 

 

 

だけど

そのクリスマス会に行くと(無料)

 

 

 

 

いろんな劇をしてくれたり

クリスマスソングを一緒に歌ってくれたり

舞台では、いろんな楽器を演奏してくれたり

 

 

 

 

本当に楽しくて、嬉しくて。

 

 

 

 

で、帰りには

全員に、ショートケーキや、プレゼントをくれるのです。

 

 

 

 

子どもながらに

「タダなのに?」

「いいの、こんなんまで貰って?」

「この人たちは、お金大丈夫?」

 

 

 

 

そんな心配もしました。(なんせ、アダルトチルドレン)

 

 

 

 

家に帰って

そのケーキを食べて、プレゼントを開ける。

 

 

 

 

嬉しかったなぁ。。。。

 

 

 

 

もう終わっちゃったけど

今年のクリスマスイブにね、そんなことを、ふと思い出したのです。

 

 

 

 

あのころ

誰かは知らないけれど(もしかしたら宗教がらみ?だったのかも知れないけれど)

 

 

 

 

私たち、子どもは

本当に嬉しかったのですよ。

 

 

 

 

それもね

私の中には、ひとつの愛、として残ってたのです。

 

 

 

 

でね

何十年も前に

見知らぬ大人から与えられた、その、ひとつの愛、を

 

 

 

 

私が実感して、愛情だと感じられたのは

「今」だったんです。

 

 

 

 

(センサーが育ったから、でしょうか)

 

 

 

 

何十年も経ってから、

私も相当、いい大人になってから、

 

 

 

 

あのころ

あんなふうにして

大人たちは、私たち子どもを喜ばせようとしてくれてたんだな。

 

 

 

 

あれも愛、だったな。

 

 

 

 

こんなタイムラグがあるのも

「愛」の特徴。

 

 

 

 

何十年の時間がたって

当時の愛が感じられたのも

 

 

 

 

私のセンサーが少しずつ、育ってる証拠なのかも知れないと思うと

 

 

 

 

それこそが

クリスマスプレゼントなのかも知れないですね。

 

 

 

 

それこそが、愛なんでしょうね。

 

 

 

 

ゆみっち、こと林由美でした。

 

 

 

 

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