五社八幡神社
福岡県行橋市入覚1311
祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇、竹内宿禰
以下、福岡県神社誌 下巻 より。
社説に曰く、当神社の 濫觴は往古人皇第一代神武天皇即位十二年日向御巡幸の時、此地に就きて大元祭を行われ親ら大祖を祀らせ給ひ、大祖の座す北斗七星に象りて七箇所の森を起こし給ひしに因るものにして、古きものにも神武巡国痕跡為大行事修行大元祭大行事社七星祀七之起源也とありて、古老の伝に七つ森の最上位にある御神森に鎮祭せる妙見宮の里宮なりしと。
其後人皇第十二代景行天皇十二年豊前国長峡県に下り給ひ、青龍窟の土蜘蛛を征伐し給ひし時、大元祭に倣ひ天照大御神を祭り給ひしこと古き縁起に、抑高郷入覚池田村の産土は往古大神宮を斎き奉るとあり。
其の後人皇第十四代仲哀天皇の熊襲御征討の為筑紫に下給ひし時、下田村に後滞陣、妙見宮に参詣あらせられ戦労を祈願し給へり。
仲哀天皇が熊襲征討の為にここに来たのは、いつのタイミングなのかが気になるところ。
可愛い狛犬。
良い感じの石垣。
明治神社誌料 : 府県郷社 下 に、下記の記載あり。
古老の口碑に曰く、当社はもと七つ森の麓、別所と云へる處の下に有りて、妙見社の里宮なり、天神五代の神々を祀りたるも、昔仲哀帝筑紫の熊襲御征討の時、御舟企救郡曾根沖を御通行、京都郡新津港に御着、御上陸あり、同地より筑前香椎に至り坐す途次、本郡下田村に御滞陣中、本村妙見宮に御参詣、戦労の御祈願あらせたりと、由つて後所祭神を改め八幡宮を斎祀せり
おや、この感じだとそのまま陸路で西に行けば香椎に行けそうだ。
岡津に行く必要ないぞ。
もし目的地が香椎辺りなら、何かの事情で横断出来なくて一度引き返し、岡津から入り直したのではなかろうか。
(何かの事情というのは、夏羽辺りではないかと私は睨んでいるから地図に若八幡神社の位置を入れた。)
でもそうではなく、横断も出来るけれどもいろんな場所を行き来する必要があって、行ったり来たり色々なルートを使っているということを表しているのかもしれない。
個人的には、飯塚にはどういうルートを通って来たのかが気になるんだけどな。
少なくとも撃鼓神社には、三韓征伐前に訪れているっぽいから、いつのタイミングでどうやって来たのやら。
行橋から田川経由の陸路で来たのか、それとも岡津(遠賀郡)から遠賀川を渡って水路で来たのか。
↑境内から見えた風景。
ちなみに、新津は大原足尼という人が港を作ったという伝承がある。
港を作ったというのは整備したという意味なんだろうと思うけど。
神功皇后の御代にこの辺りを治めた人物の名前が残っているというのは興味深い。
初めて参加したバスハイクで行った御所ヶ谷神籠石や大原八幡神社のことが今繋がってくるのが面白い