大野氏の49人が亡くなった四十九池神社 | 筑前由紀のプチトリップ

筑前由紀のプチトリップ

2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

 

 

 

四十九池神社(しじゅうくいけじんじゃ)

熊本県玉名市築地1562

 

 

    

この地は景行天皇が九州遠征時に立寄った行宮(あんぐう)の地としても知られます。

玉名市HPより)

というわけで、今回のバスハイクの行先に含まれているわけなのだけど、名前が個性的。

 

参道が良い。

 

ふとっちょ狛犬。

 

奉納品として人気なのか、見ざる聞かざる言わざるが3つもあった。

って書こうとして気付いたけど、これ、見ざる聞かざる言わざるじゃない⁉

見る聞く言う?

 

これは見ざる聞かざる言わざる。

 

これは、言わざるの猿が良いそうだけど、一応見ざる聞かざる言わざるみたい。

 

祭神 比咩御子神(ひめみこのかみ)(健磐龍之命の妻である阿蘇都比咩命の母)
副神 健磐龍之命(たけいわたつのみこと)(神武天皇の孫。阿蘇神社の主祭神)

 

レンコンのような、九曜紋みたいな盃状穴。

 

九曜紋のついた、倉庫かな。

 

 

    

碑文

 

この祭神は、大野領主及び奥方を四百年昔 築地の部落の氏子の方が祭った祭神である。

大野領主は、天正年間、この地玉名と治められた領主であり戦国時代の始め、隣接の小代氏との戦に敗れ、其の折り奥方々四十九人は、 四十九ヶ池に投身され、ゆえに四十九ヶ池神社の名がついた由来がある。大野一族の霊を察じた部落の氏子の方達が主神阿蘇大明神の横に霊を祭ったものである。このたび大野大明神を新しき床地に祭るにあたり碑文をあけ紹介するものである。

 

昭和五十三年八代海郡築地先において、砂利 採集中 鉄鋼運搬船第三十三鉄丸が船底に穴をあけられ沈没させられ、苦しみもがいた折り沈没船鉄丸を守護してた龍神さんがお産のため四十九ヶ池神社の神のもとえ帰り神々の力添えを戴き、無事お産を果したので、そのお礼まいりに、本殿の阿蘇大明神に参拝中 神殿横のやぶから「博憲博憲」叫ばれるので近よって見ると、やぶの中に御神体が四体理れており御神体いわく「大野領主」である この方、なん百年野に臥し、雨露しのんで来たぞ…との言葉あり。その出逢いから祭る事数年よって四十九ヶ池神社の主神阿蘇大明神及び大野領主の偉大なる神の助けと力添を戴き現在に至るものである。このたび大野領主の移転建設につき、七城龍神を信奉する信者の方方や又築地部落の氏子の方々の力添えを得て建立される事を感謝するものである。

 

平成二年六月吉日

 

 

 

    

四十九池神社

 

祭神は阿蘇四の宮比咩御子明神を主神とし、 それに父君健磐龍命を副神に祀ってあります。 「四十九池神社社記」によると、創建は天喜五年(一〇五七)で築地村の郷士(村の長)徳発が、阿蘇神社から四の宮の神霊をお迎えして小岱山中の四岐に祭祀しました。

 

その後、天正九年(一五八二) 大野氏が小代氏と争った時、日嶽城を守る大野氏の武士四十九名が勇敢に戦い戦死しました。 その魂が四十九池あたりや西の山に現れて、しばしば里人を悩ませ恐れさせたので、翌年、四岐にあった阿蘇大明神を四十九池に移し祈願しました。その結果、妖怪は現れなくなり里人の尊敬崇拝の念は深く厚くなりました。 

 

また、「四十九池神社伝承」によれば、小代氏に敗れた大野氏一族の女性四十九名が難を逃れて四十九地周辺まで辿りつきましたが、追手は背後まで迫ってきており、今はこれまでと覚悟を決め口々に念仏を唱えて池に身を投じて果てたといわれます。 

 

以上のように「社記」による霊魂説と「伝承」に基づく入水説の二説があります。 現在の社殿は昭和六十二年(一九八七)九月に新築されたものです。

 

「築山物語」より抜粋

 
サムネイル

大野氏の武士か女性か二説あるけど、どもかく大野氏の関係者が49人程亡くなったことが由来の様子。

 

サムネイル
 

「四十九」って数字は、仏教の四十九日にちなんでそう。

 

 

奥に進むと道の両側に池があった。