権現塚古墳
福岡県みやま市瀬高町坂田535
権現塚古墳
径45メートル・高さ55.7メートル・周囲113.5メートルの、みやま市最大級の二段築成円墳。年代ははっきりしていませんが、大化の改新の際に規模の大きい古墳を造るなどの厚葬が禁じられたことから、大化の改新以前のものとされています。
伝説によると、神功皇后が田油津媛を討った際に多くの戦死者を出した際に葬った塚であるとか、または卑弥呼の塚とも言われていますが、真実は定かではありません。
市指定史跡(1981年2月23日指定)。
一番鶏の勝ち戦(神功皇后と田油津媛の戦い)
この地方には、景行天皇の御代の頃から、強い勢力を持った土蜘蛛という集団が住んでいました。彼らは、田油津媛に率いられて、この地方を制覇して、勢いを誇っていました。
当時は、この土蜘蛛や葛築目の豪族などが、独自の地方国家達成に向かって競いあい、はげしく争っていました。
このような時代の動きのなかで、大和朝廷軍は、地方の豪族をせ制圧して、全国制覇を達成しつつありました。
そういうときですから、神功皇后は、九州で一大勢力を誇っていた土蜘蛛を制圧するために、兵を率いて、現在の大和町鷹尾に上陸しました。
戦場に向かう途中、現在の藤尾で軍儀を開きました。そこは。車坂または車塚と言われています。
いよいよ戦が始まりましたが、両軍とも互いに死力を尽くして、なかなか勝敗がつきません。陽は西に沈みました。その時、田油津媛は皇后の陣に使いを送って「明朝一番鶏の鳴くまで一時休戦しよう。」と申し入れました。
皇后もこれを承諾しました。ところが、田油津媛の軍は女山に数メートルもある城壁を築いているのです。あと西南の隅を残すだけになっていました。
多くの人々を使って、高田町の飯江から堅固な巨石を運ばせて、残りの城壁を作りあげようとしているところでした。
このことを知った神功皇后の軍は「今、何とかしなければ不利になる。」と急いで軍儀を開き方法を考えました。
その時、軍の参謀である武内宿禰が、竹皮で作った二つの笠を両手で持ってたたき合わせ、鶏の羽ばたきに似せ、鶏の鳴き声を巧みに真似てみせました。
この方法を実行しますと羽音、鳴き声に付近一帯の鶏ははや夜が明けたかと鳴き合わせたので、工事途中の田油津媛軍は驚いてあわてふためき、防ぐかまえもそこそこになりました。
そこで、待っていましたとばかりに、皇后軍が一気に攻め入りましたので、土蜘蛛軍は敗走して田油津媛はとうとう戦死してしまいました。
田油津媛の兄の夏羽が、妹を援けようとかけつけた時は既に遅く、しかたなく引き返したということです。
この田油津媛の墓は蜘蛛塚ではないかと言われています。雨の日には塚から血がにじみ出たそうです。
また、ごんげん塚は皇后軍の兵士の墓ではないかと言われています。
田油津媛が率いる土蜘蛛を滅ぼした神功皇后は、再びこのようなことが起こらないようにと、諏訪(諏訪)宮を建立して、この地を鎮めました。この諏訪宮は後に移されても本吉に鎮座したということです。
(日本書記または伝説・伝承による)
葛築目~大和朝廷に従わなかったために、景行天皇軍に討たれた葛築目は権現塚に葬られたという説があります。
ふるさとの昔ばなしー瀬高の民話と伝承―瀬高町教育委員会より。
この塚の南の畑から弥生の合わせかめ、丹塗りの高さ40cmの大きな高杯、神酒を献じたと思われる小さな壷などが出土し、堀の北東隅に合わせ石棺があるところを見ると、弥生式遺跡(墓地)の上に造られた古墳であろう。
上記の考えに私も同意し、そう考えることとする。
一般社団法人歴史と自然をまもる会 (rekishi-shizen.com)
ところで。
鳥の鳴き真似で悪者を退治したって昔話は他でも見かける。
平安時代の清少納言の「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」の解説によると、斉の孟嘗君が秦から逃れて函谷関まで来たとき、鶏鳴まで開かない規則の門を、鶏の鳴きまねがうまい者の働きによって開けさせて無事通過することができたという故事が元ネタらしい。
神功皇后らの話も、これが元ネタかな。